「人生こそが長いひとつの旅なのです」(文庫版あとがきより)という銀色夏生さんが、海外への旅を綴ったフォトエッセイ『こういう旅はもう二度としないだろう』。思うように旅ができないこの夏、銀色さんのちょっと変わった旅の思い出を通じて、世界を感じてみてください。
さて、私はもう自分の好きなツアーに行こう、と決心した。
1ヶ月に1回は行きたいと考え、4月にいいところ……と、探していて目に留まったのがこれ。「インド北部・ヒマラヤの懐に抱かれた杏の里へ 薄紅色に染まる聖域 春のラダックツアー」。
2016年4月23日から30日までの8日間、29万8000円。最少催行人員8名(15名様限定)。おひとり部屋使用料4万円。
なにしろ、そのパンフレットの写真に心惹かれたのです。杏の花が満開で、その中に玉ねぎのような形のモスクが写っている。そのエキゾチックな雰囲気に。
解説を読むと、
「知られざる杏の里・ラダックへ
厳しい冬が終わり、柔らかな陽射しが日中差し込むようになる頃、インドの北部・ラダックやカルギル地域では杏の花が咲き誇ります。荒涼とした大地を色づける杏の花。白いポプラ、そして雪を頂いたヒマラヤとの組み合わせは、この時期だけの景色です。山からの雪解け水が流れ始める季節、ウールの民族衣装を着た人々がヤクを引き畑を耕したり、種をまいたりする様子が見られます。花の民と呼ばれる人々の住むダー村も訪問。さらにインダス川の西・イスラム文化圏のカルギルではモスクを囲い谷一面に広がる杏の花をお楽しみいただけます」
決めた! 申し込もう!
で、今は4月23日(土)。
11時15分発の、デリー行きのエアインディアのエコノミーに乗ってます。
快適かと問われれば、躊躇【ちゅうちょ】なく「NO!」と答えられる状況です!
というのも、真後ろの席に2歳ぐらいのインド人の男の子がいて、ずーっと泣いてるんです。ずーっと。それも耳をつんざくような大声で。こんなに長く泣けるものかと人体の神秘に思いを馳せるほど。
30分ほど我慢したけど、たまらなくなってこんな時のためにと用意してきた耳栓をしたら少しは楽になりました。耳栓、持ってきてよかった。私もだんだん旅慣れてきましたよ。他の席の赤ちゃんもつられたのか号泣しています。後ろの席の子が足で私の椅子の背をドンドン蹴り始めました。やめて~。
泣き叫ぶ後ろの子。あやしたり叩いたりしている母。隣の隣の席のインド人は映画を見続けている。機械が壊れたようで、真ん中のだれもいない席の画面で続きを見ている。
なんだか苦しい。
搭乗してから1時間ぐらいして、やっと離陸。長かった。エアインディアは遅れがちというのはこういうことか。
離陸して、ゴーッといい始めたら男の子も泣きやんだ。ほっとする。
映画でも見ようと思ったけど、日本語字幕のいい映画がなかったので読書することにする。
すると、ランチが運ばれてきた。チキンとポテトのカレーと、ほうれん草のカレー。とてもおいしいです。が、小さな緑色の唐辛子がすごく辛かった。
近頃旅のことを考え続けていた私は、今回、飛行機の中で快適に過ごせるようなバッグを探し、ついにポケットが15個もあるバッグを買って、いろいろ入れてきました。けっこう高価なオロビアンコのバッグ。でも、ポケットが多すぎて、どこに何を入れたのかわからなくなり、また、ポケットが多いだけに大きく膨らんで使いづらい。そして革製で重い……。
これは、インド旅行には失敗でした。
まあ、それはしょうがないとして、着陸前に軽食。
旅行中は食べ過ぎないのが健康法、と思いながらも、そのサンドイッチが案外おいしくてすんなり食べてしまう。果物も。
9時間15分のフライト後、無事、夕方、デリーに到着した。
そして入国審査。
大きな丸がたくさんついた壁から巨大な仏像の手が何本も出ている。なんか好き。このデザインを考えた人は素晴らしい。
バスに乗ってホテルへ。明日の早朝の飛行機に乗るので空港近くのホテルかと思ったらけっこう遠かった。1時間弱の移動。
うす暗い変わった感じのホテル。でも大きくて近代的。ロビーのインテリアがさっきの空港の仏像の壁の丸にちょっとだけ似ていた。
チェックインの手続きのためにしばらくうす暗いロビーで待つ。こういう時間は短くてもけっこう長く感じる。
部屋に入って、すぐに夕食へ。人がいないうす暗いレストランでブッフェ形式。たくさんの食べ物が並んでいる。わりと豪華。どんな味の食べ物なのかわからないものがあり、とても興味を惹かれたけど控えめに食べる。特にデザートに不思議なものが多かった。表面が銀色に輝いてアーモンドがのっかってる小さくて四角いものなど。
味は全体的においしかった。私はライスとカレーが数種類あれば常に満足。
食事をしながら、まわりの方の話を聞く。
今回の参加者は、成田から9名、大阪から3名、現地合流2名の計14名。隣に座った黒ずくめの女性はチベットが好きで、今回でなんと参加10回目なのだそう。去年も同じツアーに参加したけど途中の道が崖崩れで通れず、今年またリベンジに来たと。同じようにリベンジの方が他にふたりもいらっしゃった。へえ~。
大阪からの飛行機は到着が遅れているそう。
シャワーはぬるいお湯しか出なかったので急いで使う(他の人はお湯が出たって)。
明日は3時40分出発なので、9時に寝る。
4月24日(日)2日目
3時に起床して、予定通り3時40分に出発。
大阪からの飛行機はずいぶん遅れ、ホテルに着いたのは真夜中で、寝る時間がほとんどなかったそう。
5時55分発の飛行機でインド北部のラダックにあるレーへ向かう。
ラダックはインドのいちばん北の端で、ヒマラヤ山脈の西の裏側、インダス川の上流にある。地理的にも文化的にもチベットの一部。文化大革命による破壊を受けなかったので、現在のチベット自治区で失われたチベット文化が、チベット以上に残されていると言われている。
機内で朝食が配られた。ナン、カレー、揚げ物、果物などで、おいしかった。
窓の外には雪山が連なっているみたいで、みんな「わ~」と言いながら見ている。私の席からはチラッとしか見えなかった。とても気になったけどガマンした。
レー空港に7時50分に到着。高度3500メートルだって。
寒い。
高山病の危険性について注意されていたので、ゆっくり歩く。そして深呼吸。
まわりは雪山。しかも空が広い。高いところなので高い山に囲まれていても、その高い山が低く見える。
乾燥していて、青空で、きりっと冷えた空気。紫外線の量も多そう。
遠くの雪山と近くの茶色い岩肌の山と荒涼とした地面。眩しい太陽。私が今まであまり見たことのない風景なので新鮮だった。
小さな空港の外に軍隊の人が銃を持って立っていた。ラダックは国境にあって、インドにとって需要な軍事拠点でもある。
ガイドさん他5名のドライバーさんのお出迎えを受ける。添乗員のコバヤシさんはラダックが大好きで何度も来ているそうで(住もうと思ったこともあったとか)、彼らとはもう旧知の仲。5台の車にそれぞれ分乗する。どの車になるかは毎日くじで決める。
私とおっちゃん、むっつりした男性、の3人になった。
おっちゃんが窓の外を歩く犬を見て、「ほら、犬、犬」とむっつり男に興奮ぎみに言う。
むっつりは「それが?」とひとこと。私も実はそう思ったけど、むっつりは愛想なさすぎ。せめて「ああ……」ぐらいは。でも社交辞令を言わないはっきりした人なのだろう。それはそれでいいと思う。
近くのホテルへ移動し、そこでお茶を飲み、休憩する。
チャイとトースト、お粥【かゆ】、じゃがいもの何かが出た。この食堂もとても寒い。暖房はないのだそう。寒い。
でも、ホテルの外にある杏の花は満開だった。
白くて細い木が棒のように直立している。ポプラの木か。これも見たことのない景色。
素朴ないいホテル。
これからアルチという村へ移動。今夜泊まるホテルのあるところ。
道路沿いには軍の施設があって、ちょっと物々しかった。途中、インダス川とザンスカール川の合流点で写真ストップ。これがインダス川……。
ほー、というか、なんというか。地理で習ったなあと。
また途中、小さな村で牛が畑を耕して、そこに村人がじゃがいもを植えているのを見る。小さな子どもがいる。毛糸の服を着て帽子をかぶってる。しわがいっぱいあるやさしそうなおばあさんがいて、みんな写真を撮らせてもらっていた。私もちょっと撮らせてもらった。
少し行ったら店が数軒並んでいて、お茶を飲むところがあったのでお茶休憩。チャイを飲む。陽射しが強くて暑いほど。丸い揚げ物を揚げてるけどなんだろうと思いながら見る。
12時にアルチのホテルに着いた。素朴なホテル。部屋に入ったけどとても寒い。お湯もあまり出ない。お湯は豊富にないので、一旦バケツに溜めて薄めながら使ってくださいと言われる。
ベッドに寝ころぶと天井が見えた。その天井は細い木を丸太の上にきっちりと並べた素朴な造りだった。
昼食を食べる。薄く丸いパンとライス、カレー、スープ。食堂のレースのカーテンは星の模様で、そのむこうにピンク色の花が咲いていた。壁にはダライ・ラマ14世の写真や高僧の写真が飾られていた。
それから村を散策。
アルチ僧院へ。10世紀末にリンチェン・サンポによって建てられた寺院と言われている。仏教美術の宝庫らしい。撮影不可。いろいろ細かいのがあった。けど、私は本当に宗教やお寺に興味がないのでなんとも思わなかった。興味のある人は興味深そうに見ていた。
何かをいくつか見て、村の中や畑を散歩する。
人がいなくて静か。石垣と木。遊んでる子ども5人と、畑仕事をしている4人家族がいたぐらい。その家族の中の10歳ぐらいの女の子をおじさんが写真に撮って、畑の中で、すぐに持参したプリンターでプリントアウトしてプレゼントしていた。おじさんは今までの旅の経験から、こうやって小さなプリンターを持参することにしたのだそう。
ご夫婦が一組いる。奥さんの方はとても寒がりだという。そして「寒い。こんなに寒いと思わなかった」と震えている。するとご主人が「言わないで来た。言ったら来なかっただろう?」と言うので笑った。
散策したら疲れてしまった。頭がうっすら痛い。高山病か。
今日はたくさん食べたし、食欲がないので夕食はパスした。早々と寝る準備をしていたら添乗員のコバヤシさんが湯たんぽを持ってきてくれた。あったかい。ありがたい。
持参した薄手の寝袋(ニュージーランドで活躍)の中に入れたら寒くなくぐっすり眠れた。そういえばパンフレットに「ホテルでは大好評の湯たんぽサービス」と書いてあった。聞けばコバヤシさんが日本から全員分の湯たんぽを持ってくるのだそう。
続きは幻冬舎文庫『こういう旅はもう二度としないだろう』で!