にしてくれるのが、お釈迦様の教え。禅の教えです。
禅僧・平井正修著の新刊『老いて、自由になる。 智慧と安らぎを生む「禅」のある生活』に学んでみましょう。
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死の正体。それは、平等に、突然訪れるもの
多くの人は、年齢を重ねることによって「死に近づいている」と考えます。だから、あるときふと自分の年齢を根拠に、死を意識し始め、恐怖を覚えるのです。
それが「老いる」ということかもしれません。
しかし本当は、死は、そんなふうに訪れはしません。
「自分はまだ五〇歳だから、八〇歳の伯父よりも死から遠い」というのは、当然のようでいて、実はまったくあてにならない推測です。
そもそも私たちは、“今このとき”を生きているにすぎません。一日一日を生きていて、その一日一日が積み重なって一年となり、たとえば六五歳だった人が六六歳になるというだけのことです。
そして、同じように“一日を送っていたあるとき”死にます。死というのは、年齢と共に徐々に近づいてくるのではなく、突然、訪れるものです。
もちろん、進行がんの余命宣告を受けているようなケースでは、徐々に死が近づいているという感覚に襲われるかもしれません。しかし、その人もまた、死ぬ瞬間までは生きていて、やはり死は突然に訪れます。
ましてや、交通事故や突然の心臓発作なら、本人は「このまま死ぬかも」ということすら思い浮かべることなく死んでしまうかもしれません。
出先で倒れたりすれば、最期を家族に看取ってもらうこともできないでしょう。
しかし、死んでいくほうとしては、案外そんなことはどうでもいいのだと思います。ただ、自分が死んでいくという事実があるのみです。
死は、本人よりもむしろ「残される側」にとってやっかいなものです。
とくに、「看取れなかった」という思いは、家族を苦しめます。新型コロナによる肺炎のような感染症では、家族とて最期に立ち会うことができず、それを知った人は当事者ではないのにたいへん心を痛めました。
ある緩和ケアの病院では、家族が揃うまでは「ご臨終です」と言わないようにしているそうです。すべて、“残された者たちのため”に、“今生きている人間が”やっていること。亡くなった本人は、なにも関係ありません。
お釈迦様は、「犀(さい)の角のようにただ独り歩め」と言っています。基本的に犀は群れることのない動物であり、人間もそのように一人で道を開いていけということです。仏教は「孤独」をすすめているのです。
私たちの悩みの多くは、人間関係によってつくられます。ですから、少し一人になる時間をとることで、そこから離れ、心を調えよと教えているわけです。
それでも、なかなか人とのつながりを減らしていくことができないのが、人生です。死をもってして、はじめてそれが完結するのかもしれません。
だから、もしあなたが大切な人を看取れなかったとしても、それを苦にすることはありません。あなたの愛する人は、立派に一人で旅立っていけたのですから。
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老いて、自由になる。
長生きも不安、死も不安――。
しかし、「散る」を知り、心は豊かになります。
残りの人生を笑顔で過ごすために、お釈迦様の“最期のお経《遺教経》"から学びましょう。
・持ちすぎない――「小欲(しょうよく)」
・満足は、モノや地位でなく、自分の「内」に持つ――「知(ち)足(そく)」
・自分の心と距離を取り、自分を客観的に眺める――「遠離(おんり)」
・頑張りすぎず、地道に続ける――「精進(しょうじん)」
・純真さ、素直さを忘れない――「不忘(ふもう)念(ねん)」
・世の中には思いもよらないことが起こると知る――「禅定(ぜんじょう)」
・目の前のものをよく観察し、自分の頭で考える――「智慧(ちえ)」
・しゃべりすぎない――「不戯論(ふけろん)」
「心を調える」学びは、一生、必要です。