お釈迦様の最後の教えだとされている、遺教経(ゆいきょうぎょう)とは、どんなものなのでしょうか。
禅僧・平井正修著の新刊『老いて、自由になる。 智慧と安らぎを生む「禅」のある生活』に学んでみましょう。
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遺教経の「八大人覚」で心を調える
──悟るための八つの教え
お釈迦様の最期の教えである『遺教経(ゆいきょうぎょう)』には、「八大人覚(はちだいにんがく)」という教えが説かれています。私たちが自覚すべき八つの事柄で、具体的には「少欲・知足・遠離・精進・不忘念・禅定・智慧・不戯論」からなっています。この八つによって、悟りの境地にたどりつけるというものです。
八大人覚の「覚」の字は、夢から「さめる」というときに使いますね。と同時に、「さとる」とも読みます。つまり、悟るとは覚めること。夢から覚めることなのです。具体的に説明していきましょう。
少欲/しょうよく
お釈迦様は「欲をなくせ」とは言っていません。欲はあって当然なのですが、少し少なくしておけと説いています。
欲が多ければ、手に入れるのはそれだけ大変だし、手に入らないときの苦しみも大きくなりますね。「あれが欲しい、これも欲しい」と思っている間は、心は調いません。
知足/ちそく
京都の龍安寺の茶室前にある手水鉢は、「知足の蹲踞(つくばい)」と呼ばれています。水を溜める真んの四角い凹みを「口」という字になぞらえて、四方を囲まれています。つまり「吾唯足知(われただたることをしる)」と読めるようになっています。
今はいろいろな禅寺で同じような蹲踞が見受けられますが、自分の中に「足る」という感覚を持てることは、とても大事です。
遠離/おんり
書いて字のごとく遠く離れていること。「寂静無為(じょうじゃくむい)の安楽(あんらく)を求めんと欲せば、当(まさ)に?閙(かいにょう)を離れて独処(どくしょ)に閑居(げんご)すべし」とお釈迦様は教えています。
鬧とは、心を乱す賑やかなところという意味。そういう賑やかで騒がしいところから離れることで、心穏やかに過ごせますよということです。
精進/しょうじん
精進とは一生懸命努力すること。
精進は、少欲、知足、遠離といった要素とは正反対のようですが、これまで説明してきたことを土台に努力することが大事なのです。ただ、がむしゃらにやるだけでは、心は乱れて調いません。
不忘念/ふもうねん
正しい念を忘れるなということです。
正しい念とは、純真な心や素直さみたいなことと考えてもらえればいいでしょう。
「正念相続」という言葉もあり、こちらは、正しい念を持ち続けることの大切さを説いています。
禅定/ぜんじょう
人生にはいろいろなことが起きます。想像もしていなかったこと、思い通りにならないことが次々とやってきます。
そのたびに心乱すことなく、落ち着いて対処することを教えているのが、この禅定という言葉です。
智慧/ちえ
いわゆる学校で習うような学問知識ではなく、誰もが生まれながらに持っている「物事を正しく認識し、判断する能力」のことを指しています。
いくらテストでいい点数を取っても学歴が高くても、智慧がなければ、心が乱れてしまいます。
不戯論/ふけろん
不戯論とは、書いて字のごとく「戯論をしない」という意味です。戯論とは無駄口のことで、つまり「無駄口は叩くな」と教えています。
無駄口を叩けば、自分の心も相手の心も乱すこととなり、いいことはありません。だから、余計なことはしゃべるべからずなのです。
この八つについて、私たちの生活に合わせてそれぞれ考えていきましょう。
老いて、自由になる。
長生きも不安、死も不安――。
しかし、「散る」を知り、心は豊かになります。
残りの人生を笑顔で過ごすために、お釈迦様の“最期のお経《遺教経》"から学びましょう。
・持ちすぎない――「小欲(しょうよく)」
・満足は、モノや地位でなく、自分の「内」に持つ――「知(ち)足(そく)」
・自分の心と距離を取り、自分を客観的に眺める――「遠離(おんり)」
・頑張りすぎず、地道に続ける――「精進(しょうじん)」
・純真さ、素直さを忘れない――「不忘(ふもう)念(ねん)」
・世の中には思いもよらないことが起こると知る――「禅定(ぜんじょう)」
・目の前のものをよく観察し、自分の頭で考える――「智慧(ちえ)」
・しゃべりすぎない――「不戯論(ふけろん)」
「心を調える」学びは、一生、必要です。