今こうしてこの記事を読んでくださっているみなさまもそうかもしれませんが、最近は生活をしていて、現実の世界を見ているよりも、画面を見ている時間のほうが圧倒的に長いのではないかと思う今日この頃です。コロナでの自粛もあり、更にSNSや画面越しの世界こそが現実、となっている感覚があるかもしれません。
さて、いまSNSを駆使している若い世代の方はもちろんこと、インターネット黎明期に青春を生きていた世代の方まで、おそらく多くの人がやったことのある「あること」が。それは、「自分の名前を検索してみる」ことではないでしょうか。
私のようで、もちろん私でない
検索画面におそるおそる自分のフルネームを入力したこと、ありませんか。そして、よっぽど珍しい名前でない限り、自分と思われる検索結果と、あと、出会ったこともない、同姓同名の別人の、知らない場所での知らない姿が、画面の向こうに垣間見えることがあります。もしかしたら、正真正銘自分だ、と思う結果はひとつもなくて、赤の他人の同じ名前の人物のことだけがヒットする、というようなあったりして。
「わぁ、この人は大会で優勝してるんだ」「へぇ、同じ名前の主婦がツイッターしてるのかぁ」など不思議な気持ちになって見ている時にふと感じる違和感。それは、なんとなく恐怖感にも近い感覚で、ドッペルゲンガーにあったような不思議な感覚。私じゃないけど、字面だけ見ていると私自身のような……。
”本物”は誰だ
実際に自分の名前を調べて同姓同名の人間の存在を意識すると、彼女の気持ちが理解できた。
確かに不思議な感覚だ。別世界に存在するもう一人の自分がいるような−−。
正紀は高校サッカーで活躍する大山正紀の記事を開いてみた。今年度の大会だった。東京予選でハットトリック−−三ゴール−−を達成したらしい。
活躍している自分を見ると、何者にもなれない自身の存在がより惨めに感じる。
同じ名前なのに、自分はなぜこうなのか。
−−向こうが本物だ。
なぜかそう思ってしまった。活躍して名を馳せている”大山正紀”と、何者でもない”大山正紀”。世の中が必要としてるのは−−より大勢から愛されているのは、向こうの”大山正紀”だろう。
−−検索するんじゃなかったな。
(下村敦史『同姓同名』より抜粋)
これは9月17日に発売される乱歩賞作家・下村敦史さんの新刊『同姓同名』の中の一場面です。自分の名前を検索したことがある人なら誰でも、この大山正紀の気持ちが痛いほどわかるのではないでしょうか。
この名前は唯一無二の自分の名前のはずなのに、同じ名前を持った別人がこの世の中には存在している。しかもその「もう一人の自分」が自分より輝いていたら−−。
もちろん自分自身は「本物」に違いないのだけれど、世の中にとったら自分は「偽物のほう」なのかもしれない……なんて思いにもなってしまうかもしれません。
一番同姓同名になりたくない人
輝いている「もう一人の自分」を見つけることもザワザワしてしまいますが、心がザワザワだけでは終わらないのは、「もしも、凶悪な犯罪者と同姓同名になってしまったら」−−。
もちろん自分自身が犯人なわけではないので、関係ないはずなのですが、「あ、そうですか」と無視できないのが本音ではないでしょうか。これほど嫌な気持ちになることはありません。しかも、嫌な気持ちになるだけではなく、自分にも名前のせいで何かしらの損害が発生したら……。
下村敦史さんの最新刊『同姓同名』は、不幸にも殺人犯と同姓同名になってしまった名もなき人々の物語。
一度でもネットで自分の名前を検索したことがある、名もなき私たちの物語です。
刊行を記念して特別記事の連載を始めます。