昨今、国民的議題となっている皇位継承問題。「女性天皇」と「女系天皇」の違いなど、わかっているようでわかっていない部分も多いでしょう。ジャーナリスト、椎谷哲夫さんの新書『皇室入門』は、皇室の歴史から制度、宮内庁の役割、祭祀、元号、皇位継承問題の論点まで、皇室について幅広く網羅した入門書。日本人なら知っておきたい知識と教養が身につく本書から、一部をご紹介します。
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初対面から弾んだ会話
当時の浩宮さまと雅子さんの出会いは昭和61年10月18日に開かれた赤坂御所でのパーティーだった。当時の皇太子ご夫妻が来日中のスペインのエレナ王女を歓迎するために開いたもので、100人ほどが招かれた。
10日ほど前に外交官試験に合格したばかりの雅子さんも関係者に勧められ、条約局長だった父親の小和田恆氏とともに参加した。新聞やテレビで父娘2代の外交官としてニュースにもなっており、会場でもひときわ目立つ存在だった。浩宮さまは招待客の中に雅子さんがいることは事前の名簿で知っており、パーティーでは外交官試験合格のお祝いを述べられるなど会話が弾んだという。
パーティー後、雅子さんを幼少期から知る外務省OBに対し「素敵な方ですね」などと感想を漏らされたという。当時、宮内庁ではお妃候補のリストアップに取り掛かっており、旧皇族や旧華族、財界、学習院関係者など令嬢の紹介を関係者に依頼する水面下の作業が続いていた。
お2人はその後も同じ赤坂御所での夕食会や故高円宮憲仁さまの宮邸での夕食会などで会う機会があり、自然な形での交流が続いた。しかし、昭和62年末にスポーツ新聞が高円宮邸での夕食会を報じたことで、お2人の間に微妙な隔たりができてしまった。
こうした中、宮内庁内では雅子さんの母方の祖父が水俣病の原因企業であるチッソ株式会社の元会長・江頭豊氏であることに懸念を抱く幹部もおり、こうした情報は浩宮さまの耳にも届いたようだ。昭和63年2月の28歳の誕生日会見では、「やはり、山頂は見えていても、中々そこにたどりつけないという感じなんじゃないでしょうか」などと話された。
同年7月、雅子さんは外務省の研修で英国に留学、お2人の交流は途絶えた形となった。
それでも赤い糸はつながっていた
一方、宮内庁は4月に富田朝彦長官からバトンタッチした藤森昭一長官が、昭和天皇のお元気なうちにとの思いで独自の動きを進めたが、進展はなかった。
平成2年2月になると雅子さんが留学から帰国。即位の礼や大嘗祭が終わり、藤森長官は皇太子となった浩宮さまのお妃問題が進展しない状況を打開するため、もう一度、お気持ちを確かめることから始めた。
日曜日になると紀尾井町の公邸から徒歩で東宮仮御所に通い、お茶を飲みながら人生観や女性観まで語り合った。その過程で、皇太子さまは「やはり雅子さんでなくては──」と本心を打ち明け、関係者が推す雅子さん以外の女性のお妃候補の話題になっても興味を示されることはなかった。
藤森長官はお2人のご成婚後、「私が一番、殿下のお気持ちをわかっていたつもりです。殿下の心境を思うと眠れない夜もあった」と語ったことがあった。
こうした経緯を経て藤森長官は平成4年になってご本人の意思は固いと判断、天皇皇后両陛下の了解をいただいた上で、雅子さんを最優先候補とすることを決めた。チッソ問題が和解に向けて進んだことも追い風となった。
同時に宮内庁は日本新聞協会に対し、2月13日から3ヶ月毎更新で皇太子妃報道を自粛する報道協定(皇太子妃報道に関する申し合わせ)を申し入れ、各社もこれを受け入れた。
その後、お2人は外務省OBらの協力で8月に入って藤森長官の公邸で再会。さらに10月には千葉県市川市の宮内庁新浜鴨場で皇太子さまが結婚の意思を示し「外交官として仕事をするのも、皇族として仕事をするのも国を思う気持ちに変わりはないはず」などと説得された。
雅子さんは即答しなかったが、その後も電話で連絡を取り合い、紆余曲折はあったものの同年12月12日、仮御所を訪れた雅子さんは結婚の申し出を受け入れた。「私がもし殿下のお力になれるのであれば謹んでお受けいたします」というのがその言葉だった。
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皇室入門
昨今、国民的議題となっている皇位継承問題。「女性天皇」と「女系天皇」の違いなど、わかっているようでわかっていない部分も多いでしょう。ジャーナリスト、椎谷哲夫さんの『皇室入門』は、皇室の歴史から制度、宮内庁の役割、祭祀、元号、皇位継承問題の論点まで、皇室について幅広く網羅した入門書。日本人なら知っておきたい知識と教養が身につく本書から、一部をご紹介します。