取り上げる古典:『人間とは何か』(マーク・トウェイン)
誰かを助けたいのに躊躇してしまうのが日本人の傾向
以前、面白い話を聞いた。
道端で歩行者が倒れるとする。日射病なのか、気分が悪くなったかその理由は主旨ではない。
すると、多くの日本人は、心のなかで「うわあ。倒れている人は大丈夫かな」と心配する。同時に「助けなきゃな。でも、私が助けなくても、他の誰かが助けてくれるかな」と躊躇しながら、歩く速度を落としたり、立ち止まったりする。
実際に誰かが助けようとすると、「あ、やっぱり私も助けに行ったほうがいいかな」と思う。でも、それでもなお、躊躇する。そんなとき、救援者が「そこのあなた、一緒に手伝ってください」と声をかけると、ほとんど手伝ってくれるらしい。というのも、指名されることで、心のトリガーが外れ、むしろ心が楽になった気がするらしいのだ。
【傍観しているとき】:見て見ぬ振りをして通り過ぎたい気持ち > 助けたい気持ち
【声をかけられたとき】:助けたい気持ち > 見て見ぬ振りをして通り過ぎたい気持ち
ということになる。ここには、利他的な気持ちがあるものの、自分の躊躇を覆すほどではないため、見て見ぬ振りをしたいというきわめて利己的さが表出している。
Uber Eatsの配達員にチップを払わないと人間が小さく思える
このところ、自分でも不思議な感情を抱く。私は経営コンサルタントに従業しているので、各業界の業績などを調べる。ファストフードを除けば、やはり飲食店は大変な状況が続いている。そこで、自分でも支援をと思い、できるだけデリバリーなどのサービスを使おうとしている。
そうすると、アプリ上で配達員にチップを求められる。求められる、といっても強制ではなくあくまでも自発的なものだ。チップは多段階制になっていて、チップを支払わない選択も可能だ。
しかし、配達員への支援と謳われている。正直にいえば、私はチップを払わない機会が多い。すると、どうしたことだろうか。なぜか、チップを支払って注文している人たちよりも、自分が倫理的に劣っているように思えてしまう。
私は何割がチップを支払っているのか知らない。それでもなお、私は、配達員たちが私を「チップを支払ってくれなかった人間だ」と見ているような感じがしてならない。実際にはそんなこと気にはしていないだろうし、そんな余裕もないに違いない。
それにしても、私はいつも、チップ込みの価格にしてくれたら、どんなに自分の気持ちが楽だったろう、と思う。私はチップを払う行為を、配達員を助ける目的から乖離し、いつの間にか自己の気持ちの問題へと矮小に転嫁してしまっていた。
勘ぐりかもしれないが、払い手の実存の問題へと浸潤するのを狙いとするならば、なかなか狡猾な仕組みといえる。
人間は機械のようなものだというマーク・トウェイン『人間とは何か』
利他という行為が、じつは自己満足ゆえであるのだろうか。
10代の私はマーク・トウェイン『人間とは何か』を読んで、いささかショックを受けた。これは青年と老人が対話形式で、人間の利他性について語るものだ。
老人は、人間を機械のようなものだといい、けっきょく人間は自分の望むように行為を繰り返すのだと述べている。どんなに道徳的な行為、他人を助けているとしても、それは自分がそうしなければ許せなかったのであり、つまりは、自己満足的な要因だとする。
この『人間とは何か』は、道徳や教育、ならびに、自由意志は存在するか、といったずっと議論され続けてきた話題が縦横無尽に展開されていく。
たとえば、老人の発言はこうだ。
<そりゃ人間って奴は、自分じゃ自己犠牲をやってる、純粋に心から他人のためにつくしているなどと、しばしば正直に考えることもある。だが、もちろん、そんなことはみんなウソだな。根源の衝動ってのは、あくまでその本性と躾とが要求するものを充しているにすぎん>
人間は教育の過程と、生きてく過程である種の道徳・倫理教育を受ける。その教育を受けたルールやコードは強力で、その規範に従っているだけだとする。それがゆえに、老人は人間を機械と呼ぶのだ。
私はレストランのデリバリーサービスにおける配達員へのチップについて述べた。『人間とは何か』でも類似例が書かれている。青年はホテルのボーイにチップを払うとき、違和感を抱くと吐露する。老人はこのように述べる。
<君のチップがもし相手の期待に添わなかったとした場合、君の受ける被害ってのは、人前で恥ずかしい思いをするような顔をされるってこと。それが君に苦痛をあたえるってんだろう。(中略)ここでもまた考えてるのは自分のことばかり。自己を守り、なんとか不快感から免れようという、それだけの話じゃないのかな>
と異常に厳しい。
人間に自由意志は存在しない
老人の主張を通して語られるマーク・トウェインの意見は大変に興味深い。しかし、それではなぜ、人間は、実際には利己的であるにもかかわらず、善行を積むように教育されるのだろか。
<それによって大変な利益をえる。これがまず第一だな――当人自身にとってだよ。次には、そうなれば、もう隣人たちにとって危険人物だなんてことはなくなる。誰にも危害を及ぼすことはない――だから、こんどはその隣人たちが、彼の徳行によって利益を受けることになる。彼らにとっちゃ、これがまた大変なことだ。そうなれば、この人生ってもんが、関係者すべてにとって、まずまず結構ってなことになるわけだからな>
つまり、利他的のように見えながら自己利益を追求するようにプログラミングされる社会が安定していると述べているのだ。
マーク・トウェインは、もちろんこのような考えだから、自由意志なんてものは。「一切ない」と答えている。もちろん、人間は自由に意志を持った決断を重ねている。しかし、それは繰り返すと、教育等の賜であり、ほんらいの意味での完全な自由な思考による意志などはなくなるのだ。
だから人間は機械だ。
『木綿のハンカチーフ』も自分のことしか考えていない
経営者に向けて書かれた本で、「従業員の声に耳を傾けよう」といったフレーズが出てくる。それは利他主義を建前上は装っているものの、結局は、そうすると「従業員も辞めにくくなるし、会社の業績も上がりますよ」といった自己利益に帰着することが多い。あくまでプラグマティズムゆえだ。
そこでは「従業員の声に耳を傾けよう。会社の業績はきっと悪くなりますけどね」といったメッセージはそもそも想定されていない。
いや、会社における利益といった、わかりやすい尺度で語られるものだけではないのではないだろうか。
たとえば、他者への恋慕はどうだろう。恋は、相手にこうあってほしい、と自らの想いを一方的に投げかける利己的な行為といえるかもしれない。ただ、本来のあなた自体を愛するという究極的に利他的と思われている行為も、全体を愛で包み込もうとすることそのものが、利己的とはいえないだろうか。
たとえば、名曲『木綿のハンカチーフ』で、都会に行った恋人に染まらずに帰ってきてほしいと歌うように。変わりつつある恋人が自分から離れる姿をも愛することは、なぜできなかったのだろうか。
やるべきことをやるなら利己的でも利他的でもいい
ところで、マーク・トウェインだけではなく、現代にも自由意志の議論だとか、利他的と利己的の人間性などについての議論など、多くの研究が進んでいるのは知っている。しかし、私の関心はあくまでも、実務的に活用する目的にある。
私は、他人を機械とまで思わないものの、各人にはある種の関数が埋め込まれていると考えている。私が何かを発言する。そうすると、彼や彼女たちは、その関数が反応を決定すると考えるのだ。
同じ発言をしても前向きに捉える人もいれば、後ろ向きに捉える人もいる。機械――の別名を採用すれば反応装置ということになるだろうか。
ただ、マーク・トウェインには悪いが、社員が利他的であれ利己的であれ、重要なのは、実際どんな行為を重ねたかだ。企業人として考えれば、なんらかの善行をした人がいるとする。それを、利他的に行ったか、あるいは、ほんとうは利己的に行ったかなど、究極的にはどうでもいい話だ。
とはいえ、マーク・トウェインのように、他者がもしかすると機械的な利己的人間という可能性を考えておくことは大変に利点がある。
これまで日本企業は、社員の内心に入ろうとする傾向があった。心からお客に尽くそう。心からお客の幸福を目指そう。心からよりよい社会を目指そう。もちろんこれらの試みは間違っているとは思わない。しかし、あえてマーク・トウェインの人間は機械であるという論を受け入れるのであれば、偽悪的に、社員の内心に干渉してもムダだと考える方が、あらたな実務の可能性を導くのではないか。
個人的な話で恐縮だが、私は、自分の会社では、あえて社員の誰もが利己的な行為をとると仮定している。全員のことは信頼しているが、それだからこそ、私は利他的な行為を期待しようとしていない。
お客を騙さない、嘘をつかない、正直に語ること。細かなルールを決めそれを守る範囲であれば、あとは、自由に利他的であれ自己的であれ勝手にやっていい。
近年のガバナンス経営とは、企業人に「やるべきことをやる」「やってはいけないことを禁じる」仕組みを作ることだ。冒頭の例で言えば、倒れた人を介抱するのが仕事なら、利己的に判断させるのではなく、やるべきなら介抱すること。
私は、企業は社員の心を支配するのではなく、あくまで行為だけに介入すべきだと思っている。外資系は結果だけを評価し冷たいが、日本企業はやる気だとか気持ちを評価してくれると言われる。しかし、実際には逆ではないだろうか。行為と結果だけを評価するほうが優しく、内心にまで介入するほうが酷いのではないだろうか。
あえていえば、お客にはUber Eatsのように倫理観に訴え、そして内部には行為しか評価しない組織のありようが、ある意味、モデルとなりうる。
<お知らせ>
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