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アフターコロナはゾンビに学べ!

2020.10.08 公開 ポスト

フィクションが先か、現実が先か?岡本健/藤田直哉

ゾンビ学』(人文書院)の著者で近畿大学にてゾンビコンテンツについて教えている岡本健さんと、『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)の著者で文芸評論家の藤田直哉さんによる、今だからこそ語りたいコロナとゾンビにまつわるトークイベントをオンラインにて開催しました。その対談を4回にわたってお届けします。

前回の記事はこちら→「コロナで起こったことはゾンビ映画ですでに描かれていた!
第2回では、パンデミックによる排他性をゾンビ映画から考えていきます。

*   *   *

災害からフィクションは生まれる

岡本 ここからは、コロナウイルスが蔓延してきた状態から緊急事態宣言が解除されて、すこし街が元に戻り始めてきた時期の話をしたいと思います。

ゾンビもので描かれる恐怖の一つが「感染」の恐怖ですよね。自分がゾンビになってしまうんじゃないかとか、実は隣の人はすでに感染しているんじゃないかと疑心暗鬼になって犯人捜しを始めるとか、よくあるシーンです。

さらに、ぎりぎりの状況になってしまって出てくる人間の「排他性」もゾンビものでよく描かれます。ゾンビになってしまった者に対して、過剰にひどいことをする人が出てきたりする。本当に残酷なのは実は人間のほうなのでは? と感じてしまいます。

ゾンビものの面白さは、ゾンビが発生したことによって人間社会が変わってしまったり、人間の性質が変容してしまうことだと思います。ある意味で、パニックのシミュレーションになっている。僕は、コロナウイルスが蔓延していくただなかにいながら、「ゾンビ映画みたいだな」と思うことが何度かありました。

映画の中で見るようなことが現実に起こってしまう、ある種の怖さがあります。「感染源は誰なんだ」と過剰に反応したり、ある大学の卒業生からクラスターが発生したことで、当該大学の学生にバッシングが起こって、「〇〇大学の学生お断り」というお店が出てくるといったことが、本当に起こりました。あるいは、感染者を疑って攻撃していくなど、「自粛警察」なんて言われ方もしていますよね。県外ナンバーの車にいたずら書きした事件が問題になったりもしました。

藤田 確かに現実のコロナ騒動と、ゾンビ映画で観てきたパンデミックはよく似ていると多くの人が感じたと思うんですよね。それはパンデミックの時だけではなくて、東日本大震災の時も、「怪獣映画で観た光景だ」とか小松左京さんの『日本沈没』みたいだという声もありました。今回も面白いことに、小松左京さんの『復活の日』が今回の状況と似ていると言われて、映画版がよく観られたようです。

何故こういうことが起こるのだろうかと考えました。それはよく言われるように、SFが未来を予知していたということだけではないと思うんです。とくに日本SFを書いてきた作家たちは、小松左京も筒井康隆も戦争を経験しています。戦争の経験がずっとトラウマのように残り続けてる人達で、緊急事態の時に人間がどうなるのか、どういう行動したのかを見て知っている人ですよね。戦争が終わって、高度経済成長が始まり、日常の秩序が形成されるんだけど、彼らにはその平和な日常の方こそが嘘みたいだと感じられていた。そのことをストレートには出せないからSFの衣に包んで書いてきた側面があると思うんです。

僕らのように80年代生まれだと、バブルの頃で戦争も知らないから、フィクションの中の戦争や非常事態は現実と結び付けて理解するというよりは、非現実的なエンターテイメントだと受け取っていて、だから単に面白いものとして消費しているわけですが、むしろそれは倒錯していて、非常事態の現実を見てきた人たちが平和な日常のなかでそのことをどう伝えるかを工夫してつくられたものがゾンビ映画や戦争映画、あるいはアニメや『日本沈没』のようなSFなのではないか。そう思った方がいいだろうと僕は感じました。

この機会に見返したのですが、宮崎駿もほとんど戦争と災害の話なんですよね

岡本 たしかに、「崖の上のポニョ」(2008年)でも洪水が起こったりしますよね。東日本大震災の津波を思い出すということで、テレビでの放送が延期されたことを思い出します。

藤田 災害をエンターテイメント化することで、心理的な備えを作らせるという技法を日本の戦後のサブカルチャーが蓄積してきたんですよね。だから、非常事態になるとフィクションのようだと思うけれども、逆で、フィクションやエンターテイメントの形を使って、作り手たちは必要なことを伝えてくれていたと考えるべきではないか。作家の自作解説などを根拠に、そう思っています。

岡本 そういう意味では、「シン・ゴジラ」(2016年)は象徴的でしたね。東日本大震災後の原発事故を経験しているので、それまで何マイクロシーベルトとか除染とか、そういった表現が何の説明もなくセリフに入っていました。それでも観ている方は理解してしまう。

ゾンビ映画の話に戻すと、今後、ゾンビもので「ウイルス」「感染」の設定が使われ続けるのかということも興味深いですし、緊急事態の描かれ方も、僕たちはコロナウイルスを体験してしまったので大きく変わる可能性はありそうです。

藤田 フィクション作家たちがよく言ってたのは、フィクションの想像力と現実は違いすぎるので、これまで通りには書けなくなったと言ってますね。例えば、和牛の券が配られそうになるとか、それを想像力で書ける人はいなかったでしょう。

岡本 フィクションよりもフィクションらしいような、「そんなことが起こるのか!」ということも現実では起こりますね。

藤田 エンターテイメントだと、危機の時にはリーダーはもっとシャキッとしていますよね。軍人とかもみんなシャキッとしています。

岡本 インデペンデンス・デイ」(96年)でも「みんなで宇宙人を倒そう!」と人間が一丸となっている様子が描かれました。

藤田 現実ではあんまりそうはならない。むしろ、マスクをするかしないかで揉めたりデモが起きる(笑)。「マスクは、神から与えられた息をする権利を侵害する」なんていう主張を本気でする人とか、フィクションの想像力では出てこない。和牛もそうですが、そんなプロットを提出しても、ブラックユーモア作品以外ではボツになっていたでしょうね。

岡本 脚本を確認した誰かが「なんで肉の券なんだ!」ってなりますよね。笑

藤田 これはみなさん驚いていることで、現実の方がすごい。むしろ、現実はブラックユーモアやシュールレアリスムに近かった。

岡本 感染症というものは、そもそも今回はじめてではないわけです。これまでに、世界中色々なところでパンデミックは発生してきた。その中で人類は生き残ってきました。とはいえ、日本ではここまで深刻なものは相当久しぶりだったのではないでしょうか。

藤田 スペイン風邪以来ですかね。

ゾンビ映画でシミュレーション

岡本 僕なんかは完全に「ゾンビ脳」になっていることを実感しました。コロナウイルスが騒がれ始めて、すぐにあまり人と会わなくなりましたね。電車通勤を止めて自家用車通勤にして人との接触をできるだけ減らしました。

藤田 僕も「ゾンビ脳」なので、パンデミックとかエピデミックとかウイルスとかの意味もすぐ分かるし、感染のモデルや再生産率などのグラフも直観的にすぐわかる。要するに「これは噛みつく強さのことだな」とか「ゾンビの足の速さのことか」とか。ゾンビを見ると、医学や防疫のことまでもが分かる。これは冗談で言っているのではなく、映画には科学的・抽象的なものを、具体的かつ身体的に分かりやすく形象化して伝える機能があるので、ゾンビ映画でもそれは発揮されたんだなと感じます。

世界中の人類を感染させて、人類を破滅させる『Plague Inc. -伝染病株式会社』というゲームがあるのですが、これがコロナの時にとても売れました。ウイルスの性質をどう設定すると人類が絶滅して、どうすればしないのかがゲームを通じて学習できます。例えば、ウイルスの性質として、潜伏期間が長いほうが、世界を破滅させやすいとか。

岡本 感染した人間が移動してうつしやすいからですね。

藤田 そうですね。下痢の症状があると、インフラが整っていない地域で感染が爆発するとか。そういうことが分かるようになっています。

岡本 ゾンビ映画にも、そうした「シミュレーション的」な部分がありますよね。感染が広がっていく状態になった時に、人間はどうするのか。社会はどうなるのか。

藤田 僕らはエンターテイメントとして怖いものを見て楽しみながら、実はそういうシミュレーションとして備えになっていることがあるというのは、研究で比較的よく言われていることです。しかしそれはなぜなのか。なぜわざわざ見ているのか。天才的な作家で、かつ使命感や善意を持った啓蒙的な人たちがいるからなのか、我々にそういうものをエンターテイメントとして見たいという本能があるからなのか、わからないんですけどね。

その意味で、ゾンビではないですが、ソダーバーグの「コンテイジョン」(2011年)はかなりよくできていましたね。

岡本 近畿大学の近くの大衆食堂のおばちゃんと結構仲が良くて色々しゃべるんですが、おばちゃんも「コンテイジョン」観て「今のコロナそのまんまやねん!」と言っていました。この時期沢山の人が観ていたようです。

藤田 アメリカのCDCというアメリカ疾病予防管理センターが監修しているから当然といえば当然なのですが、世界中に拡がっていって、ワクチンができるまで何年かかって、デマを言うやつがいて、いじめるやつがいて、薬をもとめて喧嘩して……と、今の現実がそのまま描かれたような映画です。2011年の映画なのですが、なぜこんなリアルに作ることができるのだろうと思ったのですが、非常事態に際していつも人間は同じ行動をしているということなのかもしれないですね。

岡本 このことは、ちょっと残念でもあります。たくさんの人が作品を通じて伝えてくれていますし、社会心理学や社会学、心理学などでも知見が積み上げられていますが、それでもやはり問題は起こってしまう。

藤田 人間の業のようなものかもしれませんね。ただ、日本はこれらのフィクションが描くのとはちょっと違うな、という気もしました。自粛警察現象とか。PCR検査をするかしないかなど、意思決定が曖昧なまま、空気のように決まっていく。この現実の日本の、良くも悪くも特殊な文化的な風土における非常事態のあり方は、やっぱりちゃんと描かれていないように感じます。これからの作り手に期待ですね。

*   *   *

次回はゾンビとメディアの不思議な関係について語ります。

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アフターコロナはゾンビに学べ!

『ゾンビ学』(人文書院)と『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)。ゾンビ愛溢れる書籍の著者、岡本健さんと藤田直哉さんの対談を4回にわたってお届けします。

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岡本健

近畿大学 総合社会学部 総合社会学科 社会・マスメディア系専攻 准教授。2012年北海道大学大学院 国際広報メディア・観光学院 観光創造専攻博士後期課程修了。博士(観光学)。アニメ聖地巡礼、ゾンビなどを研究。著書に『大学で学ぶゾンビ学』(扶桑社)、『巡礼ビジネス』(KADOAKWA)『アニメ聖地巡礼の観光社会学』(法律文化社)などがある。

藤田直哉

1983年生まれ。批評家。日本映画大学専任講師。東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻修了。博士(学術)。著書に『娯楽としての炎上』(南雲堂)、『虚構内存在:筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』、『シン・ゴジラ論』(いずれも作品社)、『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)などがある。

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