『ゾンビ学』(人文書院)の著者で近畿大学にてゾンビコンテンツについて教えている岡本健さんと、『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)の著者で文芸評論家の藤田直哉さんによる、今だからこそ語りたいコロナとゾンビにまつわるトークイベントをオンラインにて開催しました。その対談を4回にわたってお届けします。
前回の記事はこちら→「フィクションが先か、現実が先か?」
第3回では、ゾンビとメディアについて語っていきます。
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メディアが速くなればゾンビも速くなる?
岡本 デマの拡散という話でいえば、メディアの役割についても議論が起こっています。今現在も進行中ですが、コロナに関連したことでも、違うことでも、メディアというものはどうあるべきなのかということが問われています。
マスメディアもソーシャルメディアもそうですし、報道のあり方もそうです。安倍総理のおうち動画が、炎上しつつも「いいね」の数がものすごいことになっていたりとか。これをどう評価するのか、複雑化しています。
藤田 デマ自体は太古の昔からありましたよね。オーウェルの『1984』は、発表されたのが1949年で、その頃からデマが蔓延することやイデオロギーで汚染しあうということがよくあって、1930年代のスペイン内戦の時には、デマ合戦があったわけです。デマが出ること自体は新しいことではないのですが、インターネットやSNSといった新しいツールと、人間が感じる本能的な危機や恐怖の時に働く古い脳の部分が相互作用することは、今回のコロナウイルス騒動の特異なところで新しいところなんだろうというふうに思います。
『新世紀ゾンビ論』の中で書いたことですが、ゾンビの性質というものは、描かれているそのメディアの性質と似ているんですよね。例えば30年代の映画は、映画そのものの進みかたが遅い。ずっと長回しで映していたりとか、カットが少なかったりとか。人もあまり動きません。そうすると、ゾンビもずっと突っ立ってぼーっとしています。だんだんビデオテープなどが出てきて、みんなが8ミリフィルムでどこでも映画が作れるようになったら、そのゾンビが出ているビデオテープやフィルムの質感っぽい映画が出てくるようになります。ゲームになりはじめると、どんどんゾンビの足が速くなってきます。ゲームは映画と違って、鑑賞するものではなくて自分がリアルタイムに反応して操作するものなので、反射で出てきたら打つという、忙しいメディアなので、その忙しい感覚がゾンビを速くしている。
そうすると、このSNS時代を考えると、インターネットやSNSがこれまでのメディアと違うのは、スピードなんですよね。すぐ反応して、すぐ書き込んで、すぐリアクションがきて、ある種の中毒のようなものになる。それはゲームをしているかのような中毒性です。多分、その中での情報の流通というのが、今までとは違う。
岡本 僕もTwitterなどいくつかSNSを使っていますが、「絶対これは最後まで読んでないだろう」というコメントがついたりします。
藤田 これまでの人間というのは、基本的に理性的に思考して、合理的な判断をし、対話し……ということを理想として、それを前提に民主主義や市民社会の理念がありました。活字を黙読して鍛えられるような内面や思考を持つ存在が前提だったんですね。
ですが、これがネット時代になると、そうではなくなってきました。Twitterなどにすぐ細かく反応したり、感情的になったり、見出しに釣られたり、そういうことが当たり前になってきました。要するに、人間もゾンビみたいになってるわけです。ものを考えないで、脊髄反射で素早くいろいろなことをやるようになった。だから感情的なデマも増えるし、フェイクニュースも蔓延し、イメージや印象を操作する宣伝が増えるし、ゾンビも増える(笑)。
ゲーマーやSNSユーザーをゾンビとして描く作品というのは結構あって、これがある種新しいゾンビのメタファーになっています。スティーブン・キングの息子のジョー・ヒルが書いた『Twittering From the Circus of the Dead』という作品では、Twitterにハマっている女の子が、「ゾンビみたいね」と言われているうちに本当にゾンビになっちゃいましたという、モキュメンタリーっぽい小説です。要するに、SNS中毒がゾンビだと言っています。
さっき話題に出た「ショーンオブザデッド」も、最後はゾンビになった友人に首輪をつけて一緒にプレイステーションをやっているシーンで終わります。ゲーマーがゾンビだということですね。神山健治監督の「東のエデン」(2009年)という作品でも、ニートが豊洲のショッピングモールに押し寄せてきます。ゾンビのようになるのですが、人間を襲わず、スマホを襲います。そしてずっとネットに書き込んでいます。
岡本 そういう表現は多いですよね。『アイアムアヒーロー』でも、ネット上の、2ちゃんのようなものに影響を受けて人が動くシーンが描かれてたりとか、スティーブン・キングは『セル』という作品で、スマホで感染するゾンビの話を書いていました。
藤田 インターネットやゲームやSNSをやっている人がゾンビのように描かれるという作品が増えましたよね。このメタファーのあり方には重要な意味があると思います。「ウォーム・ボディーズ」もそうでしたっけ。
岡本 「ウォーム・ボディーズ」には面白いシーンがあります。ゾンビたちは空港にいるのですが、彼らの回想シーンがあって、「生きてた時はみんなもっと気持ちを伝えあってたよね」みたいなことをセリフでは言っているんですが、映された映像を見ると全員が何らかのメディアに目を落としていて全然喋っていないんです。そういうシーンが出てきます。だから実はソーシャルメディアとかいろいろなメディアにみんな人間は注意が向いて、目の前の人と話せなくなっている。それが実はゾンビなんだという意味付けになっていました。
藤田 『アイアムアヒーロー』も、2ちゃんねるの掲示板のようなものの引用が1話まるごと続く回がありましたね。
岡本 ありましたね! お話の初期の段階でも、高度が高いところにはウイルスがいかないというデマに惑わされて、富士山にみんな行ってしまって、神社でパンデミックが起こるというシーンがありました。
藤田 先ほど話題にも出た「なぜゾンビが走るのか」も、我々の接するメディアとの関係で速くなっているのだし、ぼくらの思考や内面のあり方も、せわしなくなっているのだと思うんですよね。だからゾンビにシンパシーを抱きやすくなっているんだと思います。
ゲームやスマホゲームにハマって反射的かつ依存的にプレイすることを、ゲーマーたちは「脳死」と呼びます。不謹慎な比喩ではありますが、本質を穿っていると思うんですよね。
現代人のゾンビ化
岡本 藤田さんの『新世紀ゾンビ論』を読んでいてすごく面白かったのは、そうやってゾンビゲームをやって、朦朧としていく藤田さんの手記みたいな部分があって、そこがすごく面白かったですね。
藤田 まぁ実体験ですよね。人体実験と言うか(笑)。そういう実感があるからこそ、ゾンビと自分は近しいものだと感じやすくなっているのではないかと思いますね。
岡本 足の速いゾンビを認める認めない論争に関しては、個人的には僕は「走るゾンビ」も好きで、面白いなと思っています。好き嫌いとは別に、研究として扱う場合、なぜ速くなったかというと、やはり藤田さんと同じで、僕は情報社会とかかわりがあるのだと考えています。
例えばテロの場合、ホームグロウンテロというものが現れて、直接テロリストの首謀者やその集団から考えを聞かされたわけではなく、ネットを通じて動画などで情報を得て影響を受けて、視聴者がその国でテロを起こしてしまう。これは、思想が物凄い速さで拡散していくっていうことで、この話がゾンビの速度とすごくリンクするなと思います。
藤田 岡本さんは「価値観」のメタファーとしても書かれていましたよね。
岡本 はい。自分たちの価値観に他者を巻き込んでいこうとする人達がいて、それが実はゾンビなんじゃないかという話です。噛むことによって同じ性質の仲間にしていきますよね。そういうことを表現してるんじゃないかという話も書きました。
藤田 古典的には「イデオロギー」とか「ヘゲモニー」と言われてきたものに近いかもしれませんね。冷戦時代、隣人を乗っ取る宇宙人が良く描かれましたが、あれは共産主義の思想への感染とか、スパイの潜入への恐怖の象徴だと言われていますね。その意味では、現在のゾンビは、SNSで熾烈化したイデオロギー闘争の状況の反映かもしれませんね。で、放言をしますが、Twitterを見ていると、ゾンビしかいないのかなって思います。
岡本 「いろいろな種類のゾンビ」がいるだけなんじゃないかって思いますね。
藤田 思想の種類は違うけど、自動思考的で感染していくところはゾンビと似ている。Twitterをみていると人間が機械のように見えてきます。感染しあって、理性的、自律的に思考したり、主体として動いていないのではないかと疑いを抱く感覚があります。近代的な人間観の方が間違っていたのだろうか、それは理想に過ぎなかったのだろうかとか、色々なことを考えますよね。「ゾンビ」とは、このような人間観の変化に対応したフィクションの形象なのだとぼくは思います。
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次回は監視社会とゾンビについて考えていきます。
アフターコロナはゾンビに学べ!
『ゾンビ学』(人文書院)と『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)。ゾンビ愛溢れる書籍の著者、岡本健さんと藤田直哉さんの対談を4回にわたってお届けします。