女子大生4人組を薬で眠らせ、暴行する事件が発生。彼女らはみずからの薬物使用を隠ぺいするため、ある男子学生にすべての罪を着せ、自殺に追い込んでしまう。数年後、別々の道を歩み始めた4人に、奇妙な手紙が届く。差出人は、死んだ男だった……。ベストセラー作家、赤川次郎さんによるミステリー小説『闇が呼んでいる』。本当に死んだはずの男がよみがえり、復讐を始めたのか? 気になる本書の試し読みをお届けします。
* * *
1 中断
「今日はいやに静かだな」
講義の途中で、教授がそう言うと、教室に笑いが起った。
教授はホワイトボードから机の方へ戻りながら、
「携帯電話も鳴らんし、途中で堂々と出て行ったりもしない。――そうか。今日はあの四人組が休みなんだな」
百人ほど入る教室に三十人ほどの学生。三分の二が女子学生である。
前の方に座っていた女子学生が、
「先生、寂しい?」
と言って、また笑いを取った。
「誰が寂しいもんか。――しかし、四人揃って風邪引いたのか。仲のいいことだな」
教室の、ほぼ真中の机に、いつもその四人の女子大生は座っている。ミネラルウォーターやアルカリイオン水のペットボトルを机の上に置いて、あたかも弦楽四重奏団のようにおしゃべりが続くのである。
「――よし、それじゃはかどるときにどんどん進んでおこう。次のページを開いて」
と、教授が言ったとき、教室のドアが音をたてて開いた。
一瞬誰もが、例の四人組が遅れて来たのかと一斉に目をやる。
しかし、立っていたのは、どう見ても学生とは言えない、パッとしない中年男が二人。
「何か用かね」
と、教授は言った。
「失礼」
と、二人は中へ入って来ると、「ここに、西川勇吉という学生が?」
「あんたたちは?」
「警察の者です」
男の一人が手帳を覗かせた。
教室の中がざわつく。
「静かに!」
と、教授は言って、「――西川。いるか?」
そろそろと立ち上ったのは、奥の隅の席にいた男子学生で、
「はい……」
と、蚊の鳴くような声を出した。
「君が西川か。――刑事さん、何のご用か知らんが、講義が終るまで待っていてもらえんかな」
「それはちょっと……」
教授は肩をすくめて、
「西川。ちょっと来い」
と手招きした。
西川という学生は、しかし動かなかった。
「――おい、西川!」
と、教授が苛々と、「早くしろ!」
西川は、机に出していたノートやペンをゆっくりと片付け始めた。どう見ても、わざとゆっくりやっているとしか思えない。
「早くしないと、こっちから行くぞ」
と、刑事の一人が脅すように言った。
すると、さっき教授に「寂しい?」と訊いた女子学生が、
「そんな言い方、ひどいわ」
と言った。「西川君が何をしたっていうんですか」
刑事が冷ややかに笑って、
「聞いたら腰を抜かすよ」
教室の中は水を打ったように静まり返った。全員の視線が西川勇吉の方へ向いている。
西川は、やっと自分のバッグを肩にかけて、教室の前の方へ歩いて来た。
「――お前、一体何をやったんだ?」
と、教授が言った。
西川はちょっと教授を見ると、
「何もしてません」
と、少し震える声で言った。
「訊きたいことがある。一緒に来てくれ」
と、刑事が促す。
二人の刑事に挟まれるようにして、西川は教室から出て行った。
ドアが閉ると、教授は、
「――じゃ、授業に戻るぞ」
と言った。
「先生!」
と、あの女子学生が立ち上った。
「何だ?」
「西川君は逮捕されたわけではありません。それなのに、『何をやったんだ』って言い方はないと思います」
女子学生は教授をしっかりとにらんで、「あとで逮捕されても、判決が出るまではただの容疑者じゃないですか。それなのに、先生が頭から学生を疑ってかかるような言い方をするのは、間違っています!」
と、厳しい口調で言った。
教授の顔が紅潮した。
「――でも、あいつ、変ってるもんな」
と、男の学生が言った。
女子学生は振り返って、
「変ってるってことが何の証拠になるの? 年中サボってる学生の方が、見方によっちゃよっぽど変ってるんじゃない?」
「待て」
と、教授は遮って、「君……名前は何だ?」
「馬場百合香です」
「馬場君か。――君の言う通りだ。僕が悪かった」
教授は他の学生たちを見回すと、「このことで、勝手な憶測や噂を流さないこと。分ったな」
「先生、ありがとう」
と言って、馬場百合香は着席した。
「西川か……。いつも、ちゃんとノートを取ってるな。名前は知らなかったが」
と、教授はひとり言のように言った。「何でもないといいな……」
そして、教授は講義に戻った。
――西川勇吉は、結局この講義に戻って来ることはなかった。
「大臣――」
と、呼ぶ声で田渕弥一は目を開けた。
「何だ。眠ってるわけじゃないぞ」
と、外務大臣は秘書の加東へ言った。「目をつぶってただけだ」
実際のところはウトウトしていた。六十近くにもなると、前の日の疲れはすぐに消えない。
加東は田渕の秘書として、まだ一年ほどだが、一体いつ眠るのかと思うほどよく駆け回る。三十になったばかりの独身青年である。
会議中に田渕が眠っていると、よく起しに来るので、今もてっきりそれかと思ったのだ。
「これを」
加東が青ざめている。――よほどのことだ。
田渕はメモを見た。血圧の高い、いつもの赤ら顔から一瞬の内に血の気がひいた。
「――総理」
と、田渕は立ち上って、「申しわけありません。ちょっと身内に事件が……」
誰もが戸惑って田渕を見ている。
「どうぞ」
と、総理大臣が肯いた。「大丈夫か?」
「はあ。――では失礼します」
田渕は、椅子を倒しそうな勢いで、部屋を出た。
車に乗るまで、何も言わなかった。
車が走り出すと、加東は運転席との仕切りを閉めた。
「――どういうことだ」
田渕の声は震えていた。「美香は……」
「ご無事です。いえ――けがをされたとか、そういうことはありません」
加東は言葉を選んで、「警察から連絡があって、すぐ駆けつけましたが、ご本人にはお会いできませんでした」
「どういうことだ?」
「つまり、ご本人がショックを受けていて、誰にも会いたくないと……」
「そうか」
田渕はメモを見直して、「これには『友人と一緒にいる所を襲われた』とあるが……」
「詳細は分りませんが、お嬢様はS大のいつも一緒の仲間と遊びに出ていたようです」
「ああ、この前ハワイへ行った四人組だな」
「そうです。四人だからと安心して遊んでおられたんでしょう。夜、六本木の辺りへ出ておられたようです」
「誰もついていなかったのか!」
「ボディガードつきでは窮屈というのも分ります。大学のサークルの集りだというので大丈夫と……」
「それで――『襲われた』というのは? 具体的にはどういうことだ」
田渕の問いに、加東は少しの間答えなかった。
「――今は、はっきりしたことが分っていません」
と、加東はやっと口を開いて、「直接、捜査担当者からお聞き下さい」
田渕のメモを持つ手が震えた。
「分った」
と肯いて、窓の外へ目をやる。「分った。――加東」
「はあ」
「マスコミの方を頼む。美香が傷ものになった、とでも書かれたら……」
「手は打ちました。警視総監に直接連絡して、一切公にしないように念を押しました」
「そうか」
「しかし……大学の中などで、多少の噂が流れるのは避けられません」
「いざとなれば、S大から海外へ留学させる」
「それがよろしいかもしれません」
「ともかく……無事な顔を見たい」
と、田渕は言った。
車は順調に流れにのって走っていた。
「――加東」
「はあ」
「犯人は分ってるのか」
一人、椅子にポツンと座った西川は、いつも以上に小柄に見えた。
「西川勇吉、二十一歳」
と、刑事は言った。「あの男に間違いありませんか」
照明を落とした部屋から、ハーフミラーを通して西川を見ていた田渕美香は肯いた。
「間違いありません」
低い声だが、はっきりと言った。
心細げな西川は、何かすがれるものを見付けようとするかのように、顔を上げて部屋の中を見回した。
西川の目が自分を見たような気がして、美香は思わず後ずさった。
「大丈夫ですか?」
「ええ……。向うからは見えないんですよね」
「見えません。ハーフミラーですからね。それに向うは明るくて、こっちは暗い」
「声は? 聞こえません?」
「大丈夫ですよ。普通にしゃべっている分には、全く聞こえていませんから」
刑事は請け合った。
「すみません……。怖くて……」
「当然です。――確認していただけば結構ですから、戻りましょう」
刑事の応対は、美香の父親のことが知れると、ガラリと変って親切になった。
「あの……まだずっといなきゃいけませんか」
「もうじき、大臣がみえます」
「父がですか」
「ええ。――他の三人のお宅にも、今、連絡を取っています。一人でお帰しするのは心配ですから」
美香は、その部屋を出ようとして、振り向いた。
ハーフミラーを通して、西川勇吉はひどく孤独に見えた。それは鏡の枠が切り取った西川の肖像画のようで、すでに西川には生気が感じられなかった。
「――どうかしましたか」
と、刑事が訊く。
「いえ……。ああいうのがハーフミラーになってるって、年中映画やTVでやっているのに、どうして気が付かないんだろう、と思ったら、ふしぎで……」
「ああ、そうですね」
と、刑事は少しホッとしたように言った。「いや、誰でも連行されてくると、頭に血が上って、わけが分らなくなりますからね。ああしてキョロキョロしてても、目は何も見ていないんです」
「そうですか……」
美香の目にはそう見えなかった。
西川は、自分を何が待っているのか知っているとでもいうように、ただひたすら首をすぼめ、小さくなって消えてしまおうとしているように見えた。
もちろん、そんなことは無理だ。不可能なのだ。
「――さあ、落ちついて下さい」
と、刑事は言った。「あの西川って奴にはしっかりしゃべらせてやりますから」
美香は黙って会釈をして廊下へ出た。
そして小部屋へ戻ってドアを開けようとすると、刑事の方を向いて、
「すみませんけど、コーヒーか何か、頼んでいただけます? お代、払いますから」
「いや、とんでもない! すぐ――すぐ運ばせますから」
その刑事がかなりあわてた様子で行ってしまうと、美香は小部屋のドアを開けた。
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