大阪人はおもしろくて当たり前、大阪といえばたこ焼き、熱狂的な阪神ファン、ドケチなおばはん……大阪に対してこんなイメージを持っていませんか?
大阪のステレオタイプなイメージは、実はメディアによって作られ広められたものだった?! 庶民的な部分ばかりに注目され、面白おかしく誇張されがちな大阪像。幻冬舎新書『大阪的 「おもろいおばはん」は、こうしてつくられた』ではその謎を解き明かします。
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大化の改新と、その舞台
大化の改新という歴史上の出来事に聞きおぼえのある人は、少なくないだろう。じっさい、日本史の教科書で、これにふれないものは、ひとつもない。歴史は苦手だったという人でも、その名前ぐらいは、記憶にとどめていると思う。
大化元年、西暦645年に飛鳥の宮廷で、蘇我入鹿(そがのいるか)がおそわれ殺害された。テロにおよんだのは、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)ら。蘇我氏の専横ぶりをにくんでのクーデターであった。以後、中大兄らは朝廷の権威を高めるべく、一連の政治改革を断行する。大化の改新とよばれるのは、その諸改革である。
改新の号令は、その翌年正月に大阪でだされている。中大兄らは、新しい時代のはじまりを印象づけるために、大阪へ遷都した。そして、大阪からこれまでとはちがう体制のできたことを、宣言したのである。
内裏(だいり)がおかれたのは、今、大阪城があるあたりの、やや南側であった。歴史家たちは、これを難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)とよんでいる。今は、難波宮跡公園として、整備されているところである。
そう、いっぱんにこの都は、難波のそれとして、史学の世界へ登録されてきた。改新の詔(みことのり)も、難波でだされたと説明をするのが、ふつうである。大阪で宣言されたという私の書きっぷりは、その慣例をふみはずしている。そして、この逸脱には、もちろん訳がある。
先日、ある方としゃべりあったおりに、場のいきおいで、話題が大化の改新になった。話しこんでわかったのだが、私の話し相手はこれを奈良の出来事だと思いこんでいる。大阪でくりひろげられた政治改革だとは、まったく考えていなかった。御当人は、大阪で生まれそだった人なのに。
たしかに、テロじたいは奈良でおこっている。だが、テロ後の新しい政治、つまり大化の改新は、ちがう場所ではじめられた。新しい難波の都、今は大阪とよばれるところで、開始されたのである。
そのことは、高校までの歴史教育でも、おしえられているはずである。じじつ、難波長柄豊碕宮のことは、たいていの歴史教科書にのっている。しかも、改新や中大兄と関連づけて。
にもかかわらず、大化の改新を奈良の歴史としてうけとめる人がいる。ひょっとしたら、ここにも大阪をあなどる例の考えが、およんでいるのかもしれない。地元、大阪の人でさえ、その観念にとらわれている可能性がある。私が大阪だと、ことごとしく書きたてたのは、そのためである。
まあ、私の話し相手が例外的な歴史音痴であれば(失礼)、そう力説するまでもないのだが。
碁盤目の都は大阪から
平城京や平安京が、碁盤目状の道路網で構成されていたことは、よく知られる。東西方向へ走る道と南北方向の道が、この両京では十字に交差しあっていた。こういう道路の配置を条坊制という。
平城京ができる前の都であった藤原京も、もうこの道路構成をととのえていた。同京は、西暦694年の持統天皇期にいとなまれている。持統、文武、元明の3代にわたり、平城遷都の710年までつづいた都である。いっぱんに、日本の条坊制はこの藤原京ではじまったと、言われている。
さきほど、中大兄皇子が大阪、難波の都で大化の改新にのりだしたことをのべた。改新の詔が、この新しい都で発せられたことも、指摘ずみである。
じつは、その第2条に、こんな都市管理のきまりごとがしるされている。「京には坊毎に長一人を置け。四つの坊には令一人を置け」、と。ここにある「坊」とは、周囲を大路でかこまれた区域をさしている。条坊制の1区間をさす言葉にほかならない。
これを真にうければ、条坊制は難波の都からはじめられていたことになる。奈良の藤原京より、大阪のほうがさきんじていたとしなければならなくなってしまう。日本における条坊制の歩みは、大阪からはじまっていたのだ、と。
しかし、日本の学界は、あまりそういうふうに考えない。そもそも、大化の改新でうちだされたという詔じたいを、うたがう傾向がある。
ほんとうに、あんなのがだされたのか。『日本書記』が、歴史を捏造したんじゃないの。55年後に制定された『大宝律令』の条文を、さかのぼってあてはめたんじゃあないか。改新の詔は、遡及的にこしらえられたフィクションだろう。いや、参照されたのは、72年後の『養老律令』かもしれない、と。
藤原京に条坊制のあったことは、考古学的にたしかめられている。しかし、難波につくられた都の場合は、その確認がむずかしい。今はビル街になっているので、発掘調査がのぞめないのである。
まあ、内裏のあった法円坂1丁目あたりは、例外的にしらべることができた。大極殿の規模などは、のちの藤原京につながることが、わかっている。宮殿の中心軸を南へ延長すれば、四天王寺の東にひろがる方形の地割へとどくことも。私は大阪の条坊制を信じたいのだが。
大阪的 「おもろいおばはん」は、こうしてつくられた
大阪人はおもしろくて当たり前、大阪といえばたこ焼き、熱狂的な阪神ファン、おおさかのおばはん……大阪に対してこんなイメージを持っていませんか?
大阪のステレオタイプなイメージは、実はメディアによって作られ広められたものだった?! 庶民的な部分ばかりに注目され、面白おかしく誇張されがちな大阪像。幻冬舎新書『大阪的 「おもろいおばはん」は、こうしてつくられた』ではその謎を解き明かします。