メールの返信が遅いだけで、「嫌われているのでは」と不安になる。友達がほめられただけで、「自分が低く評価されたのでは」と不愉快になる。つい私たちは、ちょっとしたことでモヤモヤ、イライラしがちです。小池龍之介さんの『しない生活』は、そんな乱れた心をスーッと静めてくれる一冊。本書が説く108のメッセージの中から、いくつかご紹介しましょう。
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けんか、論争を避けるために
「このボールペン、使えないから捨てるね」。そう家族に申しましたら「え? まだ使えるのにもったいない」という言葉が返ってきます。
その口調にかすかな非難が含まれていることに身構えつつ、「いや、ほら、インクがもうないから書けないんだよね」と示して相手が納得した際に、筆者の心にちっぽけな「勝利感」が生じているようでした。
それは、口には出さないまでも、「ほら、だから私の言った通りだったでしょう」という、定番の嫌みなセリフに似た気持ちです。「ほら、こういうとき、私のほうが正しい見解と判断を抱くのだから、次から意見がくい違ったときは、私の言うことを受け入れなさい」とでも、相手をねじ伏せたい思考ゆえに。
そう、この場合なら、ボールペンのこと自体はどうでもよく、互いに「自分の見解は信頼がおけるものなのだッ」ということを、相手に思い知らせて、今後を有利にしたいのではないでしょうか。
こうして私たちは愚かにも「だから言った通りだったでしょ」の「勝利宣言」をしたくなるのですけれども、それでは相手は気分を害するだけで、「次回からは信頼しよう」とは決して思ってはくれません。あれまあ。
釈迦は『経集』において、説いています。「自分の見解が勝っていると執着して、自分の見解を上に見るなら、それ以外のすべてを『劣る』と思うようになる。ゆえに、人は論争から抜け出せないのだ」(第七九六偈)と。
釈迦は論争をふっかけられても、「自分には戦わせるべき見解は何もない」と答え、言い負かそうとしなかったからこそ、勝る・劣るという勝負を抜け出していて、論敵に感銘を与えることもできたのでしょう。
すなわち説いていわく、「自分の意見に執着して議論をふっかけてくる人がやってきたなら、こう返して肩すかしをくわせるといい。『議論に応じる者は、ここにはいない』」と(第八三二偈)。
相手が間違っていても追いつめない
「自分を他人より勝るとか劣るとか、等しいとかと思わないように。……いかなる見解をも、心に持たないように」。これは、前項で紹介した釈迦の言葉に続く部分です。
この文の流れからすると釈迦は、人は他人に対する優越感を求め、劣等感に腹を立てるがゆえに、自分の見解にこだわって言い争うのだということを喝破していたのでしょう。
自分の有力さや有能さを実感したいという衝動ゆえに、私たちは「自分の見解は正しく、あなたの見解はおかしい」と思いたがるバイアスに、いつもとらわれているのです。
こんな、ありがちなケースを考えてみましょう。「これ、やっておいてってお願いしたのに、どうしてやってくれていないの?」「いや、そんなこと聞いてないよ」「ええ?! この間はやってくれるって言ってたのに」「はあ!? そんなの初めて聞いたし」……こんな、水かけ論。
この論争に負けると、自分が劣った者というイメージになりかねないからこそ、互いにムキになりがちですよね。内心「あなたはいつも勘違いばかりなんだから今回も……」などと思っていたりするものでして、「自分が忘れて勘違いしているのかも?」とは思わないものです。「正しいのは自分であるはずだ」と考える楽観性(?)が、脳の基本発想なのでありましょう。
このケースですと証拠がないため水かけ論で終わるのですが、ある意味さらに厄介なのは、不運にも証拠が出てきて相手が「敗者」と確定した場合です。たとえば、交わしたメール履歴を見れば、どんなやりとりがあったか確認できてしまいますでしょう。それで自分が正しかったとわかったなら、うれしくて相手をやっつけたくなるでしょう。
が、そうして追いつめるのは相手を傷つけて、互いの関係をこそ破壊してゆくことになります。「敗者」をさらに追いつめるなんて品性のないことと、思いとどまりたいものです。
しない生活
メールの返信が遅いだけで、「嫌われているのでは」と不安になる。友達がほめられただけで、「自分が低く評価されたのでは」と不愉快になる。つい私たちは、ちょっとしたことでモヤモヤ、イライラしがちです。小池龍之介さんの『しない生活』は、そんな乱れた心をスーッと静めてくれる一冊。本書が説く108のメッセージの中から、いくつかご紹介しましょう。