話題作『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』(中川右介著、幻冬舎新書)からの試し読み。
第三章 午後の衝撃
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澁澤龍彦
作家澁澤龍彦は午後一時頃まで寝ていた。
友人からの電話で起こされ、《この痛恨やる方なきニュース》を知る。そして、仕事も何も手がつかず、追悼文を書く。その書き出しは、
《一九七〇年十一月二十五日、三島由紀夫氏が死去された。つい数時間前のことである。》
この追悼文は、「ユリイカ」一九七六年一月号に掲載される、文庫本にして八頁に及ぶものだ。
彼は雑誌「an・an」にも、短い追悼文を書いている。
《三島由紀夫さんの死をめぐって、多くの人が尤もらしい意見を述べていますが、私には、だれの意見も信用できないような気がします。ゲーテの「詩と真実」をもじって言えば、三島さんの「死と真実」は、これからの若い人が救い出さなければならない課題でしょう。生前の三島さんも若い人が好きで、テレビに出る大学の先生や評論家などは、頭から軽蔑しておりました。ヤング・パワーは三島さんの味方になるべきだと思います。》
「テレビに出る大学の先生や評論家」についても、澁澤は三島事件にからめて批判している。「新潮」一九七一年二月号掲載の追悼文「絶対を垣間見んとして……」に澁澤は、三島事件に際してテレビや週刊誌に登場した文化人について、《文化人諸氏の発言が、あまりにも太平楽をきめこんだ、解説屋の良識的批判を一歩も出ていない俗論ばかりだと思われてならなかった》と書く。
澁澤と三島との出会いは、一九五六年に左翼系出版社の彰考書院が澁澤の『マルキ・ド・サド選集』を出版した時に遡る。まだ一度も面識のない三島に、澁澤が手紙で序文を依頼すると、三島は快諾した。この時点での澁澤は、東大仏文科を卒業した後、コクトーの『大股びらき』の翻訳で一部には知られるようになっていたが、一般的には無名であり、さらにはサドも日本ではほとんど読まれていなかった。だが、三島はサドのことも、澁澤のこともよく知っていたのだ。澁澤が三島と初めて会うのは、その本を持参した時だった。奥付には一九五六年七月三十日発行とあるので、その前後であろう。
以来、十四年にわたる三島との親交が続く。
澁澤が三島と最後に会ったのは、一九七〇年八月三十一日、澁澤が初めてヨーロッパに出かける際で、羽田空港まで三島が見送りに来てくれたのだった。
《空港のロビーに現われた氏は真っ白な「楯の会」の制服制帽で、いやが上にも人目を惹き、私たちを存分に楽しませてくれた。》
三島は出発直前の澁澤に、海外旅行におけるさまざまな注意事項を伝授した。
澁澤は九月一日にアムステルダムに着き、ハンブルク、ベルリン、プラハ、ウィーン、さらにミュンヘンをはじめとするドイツ各地、ブリュッセル、ブリュージュとまわり、二十二日にパリに着く。以後もヨーロッパ各地をまわり、アテネから南回り便で、十一月七日に帰国した。
帰国後、澁澤は帰国したという報告と挨拶を三島にしなければと思いつつも、その機会を逸していた。そして、この日を迎えてしまったのだ。
《三島氏の自決の報に接して、まず私が最初に感じたのは、「とうとうやったか……」という沈痛の思いであった。予期していたといえば嘘になろうが、少しでも氏の最近の言動に関心をもっていた者ならば、今日の異常な最期は、あながち予測できなかったことではなかったはずなのである。》
佐藤栄作総理大臣の「気が狂っているとしか思えない」という発言を引いて、澁澤は、なぜ三島がこのような「狂気」の道を突っ走ることになったのかを、こう解釈する。
《日本国民すべてがあんまり気違いではなさすぎるので、三島氏は、せめて自分ひとりで見事に気違いを演じてやろう、と決意したのにちがいない、と。そして氏はいつしか完璧な「気違い」になったのだ。》
サドという、狂気の文学を通じて知り合った二人は、こうして永遠の別れを迎えた。
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昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃
一人の作家がクーデターに失敗し自決したにすぎないあの日、何故あれほど日本全体が動揺し、以後多くの人が事件を饒舌に語り記したか。そして今なお真相と意味が静かに問われている。文壇、演劇・映画界、政界、マスコミの百数十人の事件当日の記録を丹念に追い、時系列で再構築し、日本人の無意識なる変化を炙り出した新しいノンフィクション。