話題作『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』(中川右介著、幻冬舎新書)からの試し読み。
第三章 午後の波紋
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産経新聞社
産業経済新聞社(産経新聞社)の地下の社員食堂のテレビを見て、愕然としている青年がいた。
鈴木邦男、二十七歳。
鈴木はこの年の夏に、産経新聞社に途中入社したばかりだった。ミッション系の高校に通ったが、卒業直前に教員を殴り退学になるなど、高校生の頃から行動の人だった。早稲田大学政治経済学部政治学科に入ってからは、左翼運動が盛り上がるなか、それとは逆に、生長の家学生会全国総連合に所属し、書記長として活動し、さらに民族派学生組織「全国学生自治体連絡協議会」(後に「全国学生協議会連合」)の初代委員長となるなど、右翼・民族派の活動家となる。
一九七〇年に大学院を中退し、一時は仙台の実家に帰っていたが、産経新聞社に入り、販売局に在籍していた。最初の一カ月は東京のはずれの新聞販売店に住み込んで働くことから始めた。背広もネクタイも、ようやく板についてきた頃だった。
そこへ、この事件だった。
鈴木は虚脱状態で、テレビを見ていた。
しばらくすると、昔の学生仲間が会社に訪ねてきて、「仕事なんかやってる時じゃねーだろう」と言う。たしかに、ボーッとして仕事にもならない、そこで部長に申し出て、早退させてもらった。しかし、早退しても、何をするというわけでもない。鈴木は昔の学生仲間が集まっていそうなところをフラフラと歩いた。
《自分がこんな時、会社に勤めているなんて、何かとてつもなく犯罪的な事のように思えてならなかった。
三島が死んだというよりも、森田が死んだ事にショックを受けた。森田とは大学でずっと一緒に運動してきた仲である。》
鈴木は森田必勝をこう評する。
《明るくて、いつもニコニコしていて、とてもあそこまで思いつめていたとは思えなかった。》
民族派の学生運動組織が内ゲバをしていた時も、森田だけは毅然とし、「少ない勢力で敵対し合ってもしょうがないでしょう。もっと大きなことを考えなくては」と言っていた。
鈴木は、一九七二年に新右翼団体「一水会」を創設し会長に就任する。翌年には防衛庁乱入事件を起こして逮捕され、懲戒免職となる。以後は運動に専念し、やがて著述に活動の場を移す。
何かやらなくてはだめだとの思いが、新右翼を生んだ。それは、森田への「負い目」が駆り立てたものだったと、鈴木は後に自己分析している。
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昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃
一人の作家がクーデターに失敗し自決したにすぎないあの日、何故あれほど日本全体が動揺し、以後多くの人が事件を饒舌に語り記したか。そして今なお真相と意味が静かに問われている。文壇、演劇・映画界、政界、マスコミの百数十人の事件当日の記録を丹念に追い、時系列で再構築し、日本人の無意識なる変化を炙り出した新しいノンフィクション。