西本願寺第25代門主・大谷光淳さんの新刊『令和版 仏の教え』は、仏教や浄土真宗にまつわる素朴な疑問に一問一答形式で答えた一冊。
「厄除けは必要ですか?」「キリスト教や神道についてどう思いますか?」「仏壇にお供えしたものは、いつ下げたらいいのですか?」「同じ仏教なのに、宗派が分かれているのはなぜですか?」など、誰もが一度は抱いたことのあるような疑問に、仏教の専門用語を使いすぎることなく、わかりやすく回答しています。
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親しい人を亡くした友人に、何といって慰めたらいいのでしょうか? 特に、お子さんを亡くした人には掛ける言葉が思い浮かびません。
人は生まれれば、必ず死ななければなりません。そして、いつ、どのような形で「死」がおとずれるかは誰にもわかりません。この「死」そのものが「苦」であり、「死」によってどんなに愛しい人とも別れ、離れなければならないことを「愛別離苦(あいべつりく)」といいます。
これはお釈迦さまの時代でも、親鸞聖人の時代でも、現代でも、そして恐らく今後、どんなに科学技術が発達したとしても、変わることのない事実です。
しかし、私たちがその事実に本当に向き合うことは難しいのではないでしょうか。だからこそ、親しい方や身近な方の「死」を突きつけられてしまうと、ご質問にあるように私たちは何をいっていいのかと、とまどってしまうのでしょう。
「どんな言葉を掛ければ」というご質問ですが、人の死は多様ですから一概にいうことができませんので、最も基本的なことからお伝えします。親鸞聖人のお手紙(「親鸞聖人御消息」)に次のようにあります。
なによりも、去年(こぞ)・今年、老少男女おほくのひとびとの、死にあひて候(そうろ)ふらんことこそ、あはれに候(そうら)へ。ただし生死(しょうじ)無常のことわり、くはしく如来の説きおかせおはしまして候ふうへは、おどろきおぼしめすべからず候ふ。
(『浄土真宗聖典 註釈版』771頁)
【訳文】
何よりも、去年から今年にかけて、老若男女を問わず多くの人々が亡くなったことは、本当に悲しいことです。けれども、いのちあるものは必ず死ぬという無常の道理は、すでにお釈迦さまが詳しくお説きになっているのですから、驚かれるようなことではありません。
このお手紙は、親鸞聖人88歳ごろのものです。このころ、天災や飢饉、地震などによって年齢、性別を問わず多くの方々が亡くなったようです。そうした現実を前にした親鸞聖人も「本当に悲しいこと」と仰っています。しかし、人が生まれれば死んでいかなければならないことは、お釈迦さまが説かれた通りであり、すでに知らされているのだから驚くようなことではないと続けられています。
もう一つご紹介します。阿弥陀さまの教えをお手紙にして広くお伝えくださった本願寺第八代宗主 蓮如上人(れんにょしょうにん)の「御文章」(五帖目十六通)に「白骨章」があります。そこには、
われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。されば朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり。
(『浄土真宗聖典 註釈版』1203頁)
【訳文】
(人のいのちというものは)私が先か、人が先か、今日とも知られず、明日とも知られず、人に遅れ人に先立つことは、根元のしずくが留まっている一方で、葉先のつゆが先にこぼれ落ちてしまうような、ごくありふれた出来事よりも数多いものといわれています。ですから、朝には血色のよい顔をしていても、夕方には白骨となるのが人の身です。
とあります。親鸞聖人が「生死無常のことわり」と述べられたことを、蓮如上人は「朝には元気な顔をしていても夕べには白骨となってしまうのが私たちである」と表現されています。
先に、私たちは「死」や「死」が引き起こす悲しみや苦しみという事実に向き合うことが難しいのではないかと指摘しました。仏教、あるいは阿弥陀さまの教えは、この難しさにこそ向き合っていくものです。このことを、親鸞聖人や蓮如上人のお言葉は示しています。
「死」が誰にでもおとずれるものだと理解していたとしても、「死」に向き合うのは本当に難しいことです。
だからこそ、ご質問に対しては「どのような言葉であってもいい。しかしまた、どのような言葉でもダメである」とお答えしたいと思います。
「死」を前にして悲しみ、苦しむ方のために何か言葉を掛けてあげたい。しかし、ご質問にあるように、どのような言葉がいいのかわからないし、どのような言葉であっても「慰め」にはならないように感じる。かえって相手を傷つけてしまわないだろうか。言葉にしたいけれども、言葉にできない。どのような言葉も適切ではないと感じる。言葉にすることそのものがはばかられる。こうした状況が生まれることこそ「死」の厳粛さを物語っているように思います。
ですから、安易な慰めではなく、相手の悲しみ、苦しみに寄り添いたいという気持ちから発せられた言葉であれば、どのような言葉であっても否定されるものではないと思います。また同時に、無理に言葉にせずとも、相手の気持ちを推し量り、ともに悲しむこともまた否定されるものではないでしょう。
どのような私たちであっても、そして、どのような亡くなり方をしたとしても、阿弥陀さまはあらゆるものを浄土へと往生させてくださいます。私たちも浄土への人生を歩ませていただきたいと思います。