「振り飛車党のファンも多いと思う。タイトル戦で振り飛車党でも戦えることを証明したい」
8月3日、東京都渋谷区の将棋会館。王座戦挑戦者決定戦で渡辺明を破ってタイトル戦出場を決めた久保利明は、感想戦を終えた後、インタビューに対してそう答えた。コロナ禍で対局室での取材が制限されており、ネット中継を通じての取材だったが、「振り飛車党」という単語が私の脳裏に深く刻まれた。
興奮冷めやらぬ対局の直後でも、コメントを求められた際にファンの存在に言及する棋士は多い。しかし、自分が使う戦法のことと絡めて語るのはまれだろう。「矢倉が好きなファンのために」といった言葉は聞いたことがない。「振り飛車」という戦法は、それだけ特別なのだ。
開始早々、飛車を左辺にスライドさせ、飛車と角をダイナミックに活用して戦う。それが振り飛車だ。昭和の時代には十五世名人の大山康晴、実力制第四代名人の升田幸三らが得意とし、世間を沸かせた。将棋の戦型は振り飛車と、飛車を初形の位置のままで戦う居飛車とに大別されるが、アマチュアの間での人気はほぼ五分と思える。
そんな振り飛車が、トップ棋士の間であまり指されなくなって久しい。十数年前は久保に加えて、竜王3連覇の実績を持つ藤井猛、2度のタイトル挑戦経験がある鈴木大介の3人が、名人挑戦権を争うA級順位戦に在籍していた。羽生善治や谷川浩司も、タイトル戦で度々飛車を振った。しかし、最近のタイトル戦で見かける戦法は矢倉、角換わり、相懸かりなど、ほとんどが相居飛車だ。
最近は人工知能(AI)を用いた研究がプロアマ問わず当たり前になったが、振り飛車はAIの評価が居飛車に比べて低いことが知られている。実戦で、その「アドバンテージ」を生かして勝ちきれるほど将棋は簡単ではないが、様々な面で振り飛車が押され気味であることは間違いない。こうした状況を知れば知るほど、冒頭の久保の言葉は胸に響く。
久保は1993年、17歳でプロ入りした。兵庫県出身だが、より強い相手との対戦を求めて、20代の頃は関東に在籍して腕を磨いた。努力は実を結び、03年には順位戦でA級に昇級。翌年にはNHK杯テレビ将棋トーナメントで優勝を果たした。
一方で、タイトルにはなかなか手が届かなかった。01年の初挑戦を皮切りに出場した4回のタイトル戦は、いずれも羽生に敗れた。念願をかなえたのは09年。棋王戦で佐藤康光を3勝2敗で破り、ついに初のタイトルを手にした。名実共に一流棋士への仲間入りを果たすと同時に、「振り飛車、ここにあり」を強く印象づけた。
久保の飛躍の契機となったのが、メンタル面の強化だった。「心は、まだ自分が鍛えていない部分だと思った」。5年ほど前に取材した際、そう語っていたことを記憶している。炎の前でお経を唱える護摩行に挑戦したり、心理学の本を読んだり。「自分に足りないもの」を模索する日々が続いた。
その結果、たどり着いた言葉が「前後際断」だ。「過去と未来を断ち切り、今に集中する」という意味で、禅の本を読んでいて出合ったという。この言葉を支えにして戦い続けた結果、タイトル獲得数は現役6位タイの計7期に達している。
久保の存在は、後輩の振り飛車党たちにも刺激を与えている。同じ関西勢として近年、力を伸ばしてきたのが菅井竜也だ。17年に王位のタイトルを獲得し、今年は順位戦でA級入りを果たした。
菅井は奨励会の初段の頃から、久保に見込まれて練習将棋を指すようになった。「多い時には3カ月で200局ぐらい指した。久保先生の実家で正月から指したこともある。駒のさばき方や辛抱強さがすごいと思った。あれだけ指してもらって、強くならない方がおかしい」。菅井はそう振り返る。
久保と同様、「振り飛車で活躍したい」という思いを胸に、日々将棋盤に向かう。
「振り飛車は素晴らしい戦法だと思っている。AIの評価が良くないとか、指す人が少ないとか言われるが、数年後にどうなっているかはわからない」
「近年、トップには振り飛車党が久保先生しかいなかった。A級やB級1組にもっといなければと思う。自分も頑張らないといけない」
電話での取材だったが、その声には秘めたる自信が感じられた。
久保が挑戦権を獲得した王座戦五番勝負は、9月3日に幕を開けた。相手は、17歳年下の永瀬拓矢王座。第4局で執念の逆転勝ちを見せ、フルセットに持ち込んだが、第5局は永瀬の手堅い指し回しの前に敗れた。
対局直後、久保はこう振り返った。
「事前にやりたいな、と思っていた戦型は指せた。振り飛車もまだまだいろいろあるな、と感じた」
結果は出なかったものの、手応えを感じたシリーズとなった。
その2週間後、久保は東京で順位戦に臨んだ。同じ年にプロになった行方尚史に勝って3勝3敗に。再びA級を目指す戦いが続く。
終局後、対局室を出た久保に声をかけた。甲府で行われた王座戦第5局は現地で取材していたが、直接話を聞くタイミングはなかったからだ。大きなチャンスをものにできなかった久保は、どんな心境で盤に向かっているのか。
「取れないことには慣れていますから。また一からやり直しです」
そう言って、こう続けた。
「メンタルは鍛えてきたつもりなんで」
一瞬白い歯を見せた久保は、誰もいない階段を降りて、将棋会館を後にした。
朝日新聞記者の将棋の日々
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