19世紀後半、栄華をきわめるパリの美術界。画商・林忠正は、助手の重吉とともに浮世絵を売り込んでいた。野心あふれる彼らの前に現れたのは、日本に憧れる無名画家・ゴッホと、兄を献身的に支える画商のテオ。その奇跡の出会いが「世界を変える一枚」を生む……。原田マハさんが贈るアート小説、『たゆたえども沈まず』。読むほどに引き込まれる物語の冒頭をご紹介します。
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一九六二年 七月二十九日 オーヴェール=シュル=オワーズ
ひとふさの穂も残されていない刈り取り後の麦畑が広がる四つ辻に、男がひとり、佇んでいる。
がらんと空っぽの風景だ。地平線の彼方に入道雲が音もなく湧き上がっている。ちょうど中空にさしかかる太陽は力を増し、真上から彼の薄くなった白髪頭に向かって光の矢を鋭く投げかけている。彼の背中は汗でぐっしょりと濡れ、白いシャツがぴったりと貼り付いている。
額の皺をなぞって汗が落ちるのをぬぐおうともせず、彼は、麦の株がどこまでも続く畑の小径をみつめていた。ずっと向こうから、誰かがまもなくやって来るのを待ちわびているかのように。
耳もとで騒がしく風が暴れている。埃が舞い上がる小径に、くっきりと落ちた短い影。手にした麻のジャケットだけがその中で揺れ動いている。
正午を告げる教会の鐘が鳴り始めた。彼は後ろを振り向くと、背筋を伸ばし、頭を垂れて目を閉じた。彼が向いた方角に村の共同墓地があった。鐘がかっきり十二回鳴り終わるまで、彼は黙禱を捧げていた。
村役場の前にあるラヴー食堂へと出向くと、入り口で店の主人らしき男と初老の東洋人が何やらもめている。
「私は怪しい者じゃないです。この店の上の部屋、見せてください、ちょっとでいいから」
おぼつかないフランス語で頼み込んでいる。ラヴー食堂の主人は、恰幅のいい腹を突き出して「だから、だめだってば」と繰り返している。
「なぜ? 私は日本から来ました。私はゴッホの研究者です。だから私は、ゴッホが死んだ部屋を見たいのです」
彼はふたりに近づいていき、「こんにちは、ムッシュウ」とフランス語で声をかけた。
「この人は日本のファン・ゴッホ研究者だと言っていますが……確かにこの店の三階でファン・ゴッホは亡くなっていますよね。一般には公開されていないとは思いますが、研究者ならば見せてあげてもいいのでは?」
助け舟を出した。そして「わざわざ日本から来たということですし……」と付け加えた。
「なんだい、あんた?」主人は怪訝そうな目を彼に向けた。
「なぜそのことを知ってるんだ?」
「研究者のあいだでは有名な話ですよ」と彼はにこやかに答えた。
「そうか。だったらなおさら言っておこう。『お断り』だ」
主人はきっぱりと言い返した。
「うちは賄い付きの下宿屋もやってるんだ。ただでさえあの部屋は、不吉だからと借り手がつかないんだよ。そこへ研究者がやって来ては見せてくれと言う。最初のうちはまあいいかと見せてやっていたんだが、最近じゃしょっちゅうさ。いちいち相手してたら、商売上がったりだよ」
そうまくし立ててから、
「まあ日本からわざわざ来たっていうのはありがたく思うよ。こんな田舎町にね。上の部屋を見せることはできないが、昼食を食べていってくれ。うちの肉の煮込み料理はうまいよ」
と言った。
「英語はわかりますか?」彼は日本人に英語で訊いてみた。日本人は「ええ、フランス語よりは、ずっと」と即座に答えた。
彼は日本人研究者に主人の言い分を伝えた。研究者はがっかりしたが、そういうことならと、昼食を取ることにして、晴れて店内に通された。彼もその後に続き、研究者の隣の席に座った。
彼は赤ワインと肉の煮込み料理を注文した。隣の日本人も同じものを頼んだ。研究者は黒い革の鞄からノートと鉛筆を取り出し、テーブルの上に広げて何かを書き付けている。彼は横目でノートを盗み見た。
縦書きの文字がびっしりと書かれてあり、研究者は銀髪の頭をときおり鉛筆の尻でつついて、右から左へと文字を書き連ねている。かつて機械技師だった彼は、第一次世界大戦のまえに日本へ技術指導で出かけたことがあったが、そのときに日本の人々が文字を書き連ねるのを初めて見て、なるほどこうやって「縦書き」の文字が書かれるのだ、だから日本の絵には縦構図が多いんだな――と納得したことを、ふいに思い出した。
彼がノートに関心を寄せていることに気がついて、研究者は鉛筆の手を止めた。そして、「あなたは、どちらから?」と尋ねた。
「ラーレンです。オランダの」と彼は答えた。
「アムステルダムから車で三、四十分のところにある町です」
「ラーレンですか。行ったことはありませんが……」
「オランダには?」
「ええ、ありますよ。これでもいちおう、ゴッホの研究者ですからね。アムステルダムと、エーデには行きました」
エーデにはファン・ゴッホの大コレクター、クレラー=ミュラー夫妻が一九三八年に開館した美術館がある。研究者はそこへ行き、ファン・ゴッホの作品を初めてまとめて見たということだった。「いやもう、言葉にはできません。感動、のひと言に尽きます」と、そのときの記憶が蘇ったのか、熱のこもった声で語った。
「フランスよりもむしろアメリカの美術館のほうが、ゴッホの作品を色々と所蔵しているとわかっているのですが、まだ行けていません。飛行機代が馬鹿高いので……まあ私としては、死ぬまでにニューヨーク近代美術館にある《星月夜》が見られたら本望だなあ、と」
夢みるような顔つきになって、
「あ、でも、ルーブル美術館では見ましたよ。《自画像》《ファン・ゴッホの寝室》《医師ガシェの肖像》、それに……《オーヴェールの教会》」
正確にタイトルを諳んじてみせた。彼は微笑んだ。
「日本の美術館にはないのですか?」
と訊くと、「ありますよ。一点だけ」とまた即座に返ってきた。
「薔薇を描いた晩年の作品です。国立西洋美術館といって、戦後にできた美術館の収蔵作品です」
〈ばら〉というその作品は、戦前、松方幸次郎という日本人実業家が所蔵していたもので、フランスで買い求め、ほかの画家の作品とともに、そのままフランス国内のとある場所に保管していた。そのうちに戦争になり、日本は敗戦国になったので、松方が所有していたフランス名画の数々はフランス政府に没収されてしまった。戦後になって日仏間で返還交渉が行われ、四百点にのぼる松方コレクションのうち、フランスに残すことが指定された十八点を除くすべてが「寄贈返還」された。その中の一点が、ファン・ゴッホの〈ばら〉なのだ――と研究者はていねいに解説してくれた。
「ルーブルにある《ファン・ゴッホの寝室》。あれも、もともとは松方コレクションにあったものですよ。けれど、フランスも惜しくなったのでしょうね。残せということになったらしい。日本人にしてみればけしからん話だけれど、まあ、ゴッホがアルルで暮らした部屋の絵ですからね。フランスの美術館、しかも天下のルーブル美術館に残されたのであれば、そのほうが画家にとってはよかったのでしょう」
ワインが回ってきたのか、研究者は滑舌よく、なかなかうまい英語で話し続けた。彼は肉の煮込みをフォークで口に運びながら、黙って研究者の話に耳を傾けていた。
「ところで」と彼は、テーブルに勘定書が置かれたのをしおに、訊いてみた。
「あなたは、ハヤシという人物を知っていますか?」
「え?」研究者が訊き返した。「ハヤシ?」
「ええ。ハヤシ・タダマサという日本人画商です。昔の人で、十九世紀末にパリの画廊で日本美術を売っていたとかいう……」
何かとても重大な質問をされたように、研究者は眉根を寄せて考え込むそぶりになった。
「いいえ……残念ながら、知りません。その人は、ゴッホに何か関係のある人だったのですか?
彼は苦笑した。
「私はファン・ゴッホの専門家ではないのでわかりません。機械技師です。……いや、二年まえに七十歳で引退したので、技師『でした』」
と、自分の身の上を明かして、
「ハヤシの名前は何かで目にしたことがあって……日本人の研究者ならば知っているかなと思って、質問したのです」
「おや。私はてっきり、あなたもゴッホの専門家かと思って話していましたよ。だって、わざわざオランダからゴッホの命日にこの村に来るなんて、よほどの愛好家か専門家以外にはあり得ないでしょう」
「おや、そうだったのですね」と彼は、驚きの顔を作ってみせた。「今日はファン・ゴッホの命日だったのか……」
「なぜまた、この村へいらしたのですか?」
研究者の質問に、彼は笑って答えた。
「この店の肉の煮込み料理を食べに来たのですよ」
ふたりはそれぞれに勘定を済ませ、店の前で握手を交わした。研究者は「最後まで名乗りもせずに、失礼しました」とていねいに詫び、シキバと名乗った。本業は精神科医だという。
「あなたは?」とシキバは尋ねた。「なんとおっしゃるのですか?」
彼は、一瞬、言いよどんだが、
「フィンセントと言います」
そう答えた。おお、とシキバがうれしそうな声を漏らした。
「ゴッホと同じ名前ですね」
彼の顔に木漏れ日のような微笑が広がった。
「ええ。オランダ人には、よくある名前です」
たゆたえども沈まず
19世紀後半、栄華をきわめるパリの美術界。画商・林忠正は、助手の重吉とともに浮世絵を売り込んでいた。野心あふれる彼らの前に現れたのは、日本に憧れる無名画家・ゴッホと、兄を献身的に支える画商のテオ。その奇跡の出会いが「世界を変える一枚」を生む……。小説家にしてキュレーターの原田マハさんが贈るアート小説、『たゆたえども沈まず』。誰も知らないゴッホの真実を描いた、読むほどに引き込まれる物語の冒頭をご紹介します。