勉強ってつらいですよね。
でも、勉強を「つらいもの」にしてるのは、親御さんかもしれません!
コロナ禍で、授業の時間が減ってしまって、宿題も増えました。そんなとき「宿題やった?」って言ってませんでしたか?
ロザン菅ちゃんが、勉強の本質を面白く、しかし説得力200%で面白解説!
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「宿題やった?」と親に聞かれた瞬間、子供にとって宿題が罰になる。
『宿題やるのがめっちゃ好き! はやく家に帰って宿題がやりたい!』と思う方は少ないでしょうね。
ドラマを観たり、ゲームをしてしまったりする前に宿題を済ましておけばいいので
すが『このドラマ観てから宿題やろう!』『このボスを倒してから宿題やろう!』と宿題を後回しにしてしまう人が多いのではないでしょうか?
ドラマを観てからすぐに宿題をやれば、誰も文句は言いません。
僕もそうでしたが、ドラマが終わってもテレビの前でダラダラしてしまいます。やっと重い腰を上げて机に向かおうとした途端、言われたくないセリフを親に言われます。
親「宿題やった?」
子供「今からやろうと思っていたのに!」
親子ゲンカが始まります。
この親子ゲンカはなぜなくならないのでしょうか?
親目線で考えてみましょう。
『この子、宿題やらないでドラマ観ているわ。まぁ学校でドラマの話になった時に、ついていけないのもかわいそうやしね。
私が子供の時も《宿題やった?》って言われたら嫌やったしね。
このドラマ観てから宿題やるでしょ?
……あれ?
ドラマ終わったけど全然動けへんやん。
……「世界の車窓から」観ているやん。
観たい?
「世界の車窓から」観たい?
観たくて観ている?
確かに面白いけど、この面白さわかるにはあんたまだ幼くない?
「世界の車窓から」の面白さがわかるのは大人になってからやで。
あかん。
我慢出来へん。
言おう!』
「あんた! 宿題やった?」
ではないでしょうか?
言う方も言われる方も嫌なのが「宿題やった?」だと思います。
ではなぜ親は言ってしまうのか?
子供のことが心配だからです。
子供のことが心配だから心を鬼にして「宿題やった?」と言ってしまうのです。
僕の経験上の話です。
親からは「宿題やった?」以外にも一生小言を言われることを覚悟して下さい。
僕が大学生の頃、実家を出て一人暮らしを始めると、親に「こたつで寝てないか? 風邪引くで」と心配されました。
こたつで寝てないことがわかり、芸人になると「お金は稼いでいるか?」と心配されました。
何年か経ち芸人としてお金を稼いでいることがわかると、「保険や年金は払っているか?」と心配されました。
保険や年金を払い、暮らしにも少しゆとりが出来、車を買うと「安全運転しているか?」と心配されました。
ちゃんと安全運転していることがわかると親は最近こう言ってきます。
「こたつで寝てないか?」と。
グルグル回ってこたつは出てきます。
必ずこたつは出てきます。
忘れた頃にこたつは出てきます。
僕もびっくりしました。
また! こたつ出てきた!
と思いました。
最近わかったことは『親は子供の年齢に関係なく、何かと理由をつけて小言を言ってくれる』です。
親が子供を想う気持ちは大人になってみたらわかりますが、子供のうちは反抗してしまいますよね?
ではなぜ「宿題やった?」と言ってはいけないのか?
お互いに嫌な気持ちになることだけが理由ではないと思います。
一番良くない理由。
それは、子供にとって『宿題が、自らやる行為からやらされる行為に変換される』
からではないでしょうか?
勉強以外もそうかもしれませんが、『自らやる行為とやらされる行為』では、同じやるにしても全く違いますよね?
やる気も理解度も。
宿題、つまり勉強が『やらされる行為』になると、同じくらいの量を勉強するにしても『自らやる行為』の子供とは格段に成績に差が出ると思います。
子供の時の遠足登山に似ているのではないでしょうか?
子供の時の遠足登山は『やらされる行為』ですよね?
もしかしたら僕だけかもですが、嫌でした。
何時間もかけて山の頂上まで登り、お弁当を食べていると先生に言われます。
「山の頂上で食べる弁当は美味しいやろ?」と。
笑顔で頷(うなず)きましたが、先生には申し訳ないですが、内心は『めちゃくちゃ歩いたからお腹空いているだけやん!』と思ってしまっていました。
行列に並んでラーメン食べたら美味しく感じる理由に近いと思います。
もしかしたら子供の時の『やらされる登山』の経験から、僕はまだ自らの意思で登山したいと思えないのかもしれませんね。
もちろん子供の時の『やらされる登山』の経験により、登山が好きになった方もおられるでしょう。
そのような方は大人になっても登山をすると思います。
ただやはり大人になり、自分の意思で登山する方が、子供の時のやらされる登山よりも楽しいのではないでしょうか?
なおかつ山の情報を自分で調べたりするのではないでしょうか?
偉そうかもですが、それが自ら勉強するということだと思います。
以前楽屋で宇治原とテレビ番組を観ている時に、CMが流れました。
細かくは覚えていませんが、子供に対して『今からゲームをしましょう! 勝った子にはご褒美にこのお菓子。負けた子には罰で宿題をいっぱい出すからね』というものだったと思います。
嫌がる子供たち。
そのCMを観て宇治原が呟(つぶや)きました。
『なんで宿題することが罰やねん』と。
僕はそのCMを違和感なく観ていましたが、宇治原はそう感じたようです。
社会の風潮も『宿題=罰。やりたくないこと』となっているような気がします。
また講演会をしていて感じる傾向ですが、「自分が宿題をしていなかった親ほど、子供に宿題をさせようとする」と思います。
偉そうですが、自分が言われないと宿題をしなかった経験があるから、宿題は言わないとやらないものだと思ってしまっているのかもしれません。
では宿題をやらない子にはどうすればいいのでしょうか?
極論かもしれませんが、「宿題をやらずに先生に怒られる」方が、「言われてから宿題をやる」よりもましかもしれません。
そうはいっても子供にはちゃんと宿題をやって欲しいですよね?
では子供にどのような教え方をすれば、自分の意思で勉強するのか?
子供は「ゲームをしなさい!」と言われなくても、勝手に自分の意思でゲームをやりますよね?
なぜならゲームは楽しいからです。
だったら子供が《勉強をゲームしている時と同じように楽しい》と思えば、自らやるのではないでしょうか?
そんなやつおるか!
わかります。僕もそんなやつはいないと思っていました。
でも横にいました。
宇治原です。
宇治原の幼少時代。
宇治原は、自分と同じように目が窪んだ姉(『京大芸人』参照)と目が窪んでいる同士気があったのか、いつも遊んでいました。
ただ宇治原の姉が小学生になると状況が変わりました。
宇治原の姉が小学校の勉強を始めたのです。
宇治原は姉と遊ぶ時間がなくなり退屈になりました。
その時、目が窪んでいない宇治原の母親はどうしたのか?
『これ出来る?』
母親はチラシの裏に、まだ幼稚園児だった宇治原でも解けるような問題を書いてあげたみたいです。
姉と遊ぶことがなくなり退屈になった宇治原は、毎日毎日その問題を解いていたそうです。
その時の宇治原の感覚。
『いわゆる学校での宿題や勉強ではなく、姉と遊んでいるようなゲーム感覚で問題を解いていた』みたいです。
つまり問題を解くことが、ゲームをクリアすることと同じだったそうです。
普通の遊びから、いわゆる勉強に上手いことシフトチェンジさせることが、自ら勉強するように仕向ける最良の方法だと思います。
びっくりされるかもですが、宇治原はその幼少の経験から、大人になった今でも問題を解くことがゲーム感覚だそうです。
講演会では『子供にテレビゲームをやらせてもいいですか?』という質問も多いです。
良いか悪いかはわかりませんが、宇治原も子供の頃はゲームをしていました。
今の環境は昔と違って、ゲーム自体が通信機能を使うことにより子供同士のコミュニケーションツールになっているので、大目に見てあげてもとは思いますが、昔のテレビゲームと違い、親の目が届くリビングでゲームをしないことも多いので、心配ですよね。
『そらそうやろ!』と思われる方が大半だと思いますが、そうはいっても僕も小学生の時はゲームをしていました。
ただし1日にゲームをする時間が決められていました。
1日に1時間です。
今のゲームとは違いセーブが出来ないゲームが大半だったので、1日に1時間だとまた次の日に同じようなシーンをやらなければいけません。
僕はある行動に出ました。
平日はゲームをせずに、日曜日に沢山ゲームをしようと考えたのです。
月曜から土曜日まではゲームを我慢して、月曜日から土曜日に貯めた6時間と、日曜日の1時間を足して、日曜日に7時間ゲームをしようと単細胞の菅少年は考えたのです。
平日にゲームをしない菅少年を見て、母親が言いました。
「あんた。ゲームしてないやん。偉いなぁ」
単細胞の菅少年は曖昧(あいまい)な笑みを浮かべながら思っていました。
『あなたが作ったルールには穴があるのだよ。
日曜日楽しみにしておきな。
そうか!
その手があったか!
あんた賢いな!
と思わせてやるぜ』と。
待ちに待った日曜日。
僕はゲームをしました。
『スーパーマリオ』です。
菅少年の想像では、いつもより長い時間ゲームが出来るゆとりから、次々と敵を倒し、最後のボスまでたどり着き、姫を助けるイメージでした。
違いました。
平日にゲームをしていないことが仇(あだ)になりました。
下手になっていました。
初めのクリボーにぶつかる始末です。
1時間を過ぎた頃。
調子が出てきた僕はようやくいつもと同じ場面までたどり着きました。
母親が菅少年に忠告しました。
「あんた。もう1時間経ったよ。ゲームやめや」
単細胞の菅少年は母親に言いました。
「平日ゲームしてないでしょ? だから今日は7時間ゲーム出来るのですよ」
母親は菅少年を見ず、テレビの後ろを見ながら言いました。
「そのようなルールではない」
そしてテレビの後ろのコンセントを抜きました。
菅少年は反抗をしませんでした。
なぜならコンセントを抜かれることよりも、晩ご飯を抜かれることを恐れたからです。
話をもとに戻します。
なぜ「宿題やった?」と言ったらいけないのか?
宿題が、自らやる行為から、やらされる行為に変換されてしまうからと述べました。
社会人になっても同じことが言えるのではないでしょうか?
仕事も、自らやる行為から、やらされる行為に変換されてしまうのです。
サラリーマンやOLなどの会社勤めの方はもしかしたら、自分がやりたくなくてもやらなければならない仕事が沢山あるかもしれません。
我々芸人は自営業ですが、やらされる仕事も若手の時はありました。
まだ芸歴でいえば4、5年目の時ですが、「歌って踊れる男前グループ」を作る企画があり、我々ロザンが選ばれました。
僕の顔を見たことがある方はわかると思いますが、僕はすこぶる男前です。
宇治原は僕がすこぶる男前のおかげで、このグループに選ばれました。
わかりやすく説明すると、宇治原のおかげで僕もクイズ番組に呼んでもらえる逆パターンだと思って下さい。
ただその当時僕は「は? なんで芸人やのに、歌って踊らないといけないねん!」
と一丁前に思っていました。
僕のおこぼれでグループに入ったにもかかわらず、宇治原もそう思っていたみたいです。
おこぼれ宇治原のくせにそう思っていたみたいです。
ただ特に宇治原はそうですが、僕たちはやらされることを極端に嫌います。
ではどうするのか?
『どうせやるなら自らの意思で歌って踊る選択をしたと考えて、一生懸命する』ことにしました。
するとどうなるか?
その当時は笑いに変えることが出来ませんでしたが、後々『歌って踊っている映像』を流すと爆笑です。
もしその時に「は? なんで芸人やのに、歌って踊らないといけないねん! よし。適当にやろう!」と思って適当にやっていれば、後々見ても面白くなかったかもしれません。
逆に、考えた結果やらなかったこともあります。
同じくまだ芸歴が4、5年目の時でした。
当時ついてくれていたマネージャーが漫才のアドバイスをしてくれました。
「漫才見たけど、菅君の可愛らしい部分が出てないと思う。
菅君の可愛らしい部分を出す方法を考えました。
菅君。
漫才の時にローラースケート履こう」
意味がわかりませんでした。
マネージャーが続けてアドバイスをしてきました。
「菅君がところせましと、ローラースケートで舞台を移動して、ボケる時にだけ、センターマイクの前に現れるねん」
つまり僕がセンターマイクの前にいる時は、絶対にボケるということです。
ボケるのがバレバレです。
とても上手く出来るとは思えなかったので、断りました。
また話がそれてしまいましたが、学生の方も社会人の方も「やらされる事柄を、自らやるように、いかに変換するか?」が大切なのではないでしょうか?
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