先行きが見えない、不安な時代をどう生きていけばいいのか。アドラーをはじめ、プラトン、デカルト、三木清など、古今東西の賢人の言葉を挙げながら、コロナ時代の新しい考え方を説いた一冊『これからの哲学入門 未来を捨てて生きよ』より、一部を抜粋してお届けします。
(記事の終わりには、刊行記念オンラインイベントのご案内があります)
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幸福な人間はペストに罹らない?
ペストが猖獗をきわめた十六世紀後半から十七世紀にかけてのイギリスでは、幸福な人間はペストに罹らない、心が幸福な状態であれば病気は避けられると信じられていました。
不屈の胆力と精神力があれば感染を防ぐことができ、意志の力で病気を治せると思う人は、コロナウイルスが蔓延している今も多いです。福島で原発事故があった時も、放射能は恐れるに足らないというようなことをいう人はいました。
作家のソンタグは、現代は、病気を心理学的に説明することを偏愛し、「心理学を持ち出しさえすれば、病気のような人間が実際にはほとんど、あるいは、まったくどうすることもできない経験や出来事を制御できると思うらしい」といっています(Susan Sontag, Illness as Metaphor and AIDS and Its Metaphors)。
しかし、トゥキュディデスが「もっとも恐ろしいのは病気に罹ったと知った時の落胆だ」という時、病気が治癒しないかもしれないことを知った時に感じる落胆、失望、絶望以上のことを考えているように思います。
病気が治癒しないとしても、なお人は絶望しないで生きていけるのか。生涯一度も病気にならない人はいません。病気に罹患しても服薬したり、手術を受けたりして、危機を切り抜けても、最後には人は死にます。そのような人生であっても希望を持って生きることはできるのか。考えなければならないことは多々あります。今、一つだけ指摘しておくとすれば、母の病気を制御することは私にはできませんでしたが、母の病床で過ごした時にわかったことがあったのです。
それは、母の病床で過ごしている時には、その過ごしている「今」のことしか考えてはいけないということです。このことについては、後に私自身が病気で倒れた時にも思い当たりました。以後、一度も考えが揺るがなかったわけではありませんが、それでも、一度、「今」のことしか考えてはいけないと知ってしまうと二度と元に戻れなくなりました。後に問題にしますが、母の病床で過ごしていた頃はまだ漠然と将来どう生きようか考えていました。人生には自分の努力で何とかできることは多い。それなのに、最初からどうにもならないと諦めてしまうことは問題だ、と。
それでも、母の死を経験して自力ではどうすることもできないことがあると知った私は、母の遺体と共に帰宅した時、私の前に敷かれていると思っていたレールから音を立てて脱線しました。
本来あるべき人生に戻ろう
順風満帆な人生を送っている人であれば、これからの人生のことを考えて不安になったり、人生が有限であることを知って絶望するというようなことはないでしょう。
そのような人でも病気になると、これからどんな人生を送ろうか漠然と考えていたことが実現しないのではないかという恐れに囚われます。もちろん、誰もが最初はすぐに健康を取り戻せると思うでしょう。どれほど重体であっても、回復の見込みがほとんどないとわかっていても決して自分は死ぬことはないと思っています。だから、生きていけるのです。
それでも、自分の行く手に死があることを一度知ってしまうと、若い人でも、人生の意味について考えないわけにはいかなくなります。自分が病気になった時だけではありません。家族が病気になった時も同じです。
しかし、このようなことについて考える機会がなかった人は、若い人のみならず年のいった人でも、これからの人生が何の問題もなく続いていくと信じて疑うことはありません。
もちろん、人は誰もが最後に死ぬということを知っているはずなのですが、自分だけは死なないとどこか思っている人の方が多いかもしれません。
ところが、コロナウイルスが蔓延する今、誰もが可能的に病者になったといえます。つまり、今は感染していなくてもいつ何時感染するかわからないという状況に置かれると、自分が病気になるとは考えたこともなかった人でも、もう既に自分が病者であると考えてしまう人はいるでしょう。
他方、自分だけは決して感染しないと固く信じ続ける人がいるのも本当です。そのような人は安心できる情報を探し求めます。そして、病気について過剰な心配をしている人を貶しめます。
病気になった人は、こんな大きな病気になったのだから、これからは生き方を変えてみようと思います。しかし、そう考えた人でも無事退院し日常生活に戻ると元の木阿弥になってしまうというようなことはいくらでもあります。このことが引き起こす問題については後で見てみましょう。
誰もが病者になりうる時代
ともあれ、私たちが目下病気に罹っている状態であるとするならば、病気と付き合っていくしかありません。
これから先どれぐらいこれまでとは違う生活をすることが必要なのかは誰にもわかりません。ですから、初めからあまり力を入れすぎないことが大切です。今の状態が一月で終わると考えていれば、一月では終わらず、さらにまた外出自粛が求められるようなことがあればがっかりするでしょう。
一日も早く終息してほしいと願わない人はいないでしょうが、今の生活はやがて前のような生活に戻るために耐え忍ばなければならない仮のものではありません。今だけが与えられた現実なのです。入院している人であれば、入院している今が自分に与えられた現実だと考えるということです。今は退院するまでの仮の生活だと考えていると、入院生活はつらいものになります。
コロナウイルスが終息したからといって、元の生活に戻らなくてもいいと私は考えています。コロナウイルスが今後どうなるかに関わりなく、本来あるべき人生とは何かを考える機会を与えられたと考えたいのです。コロナウイルスが終息したからといって、また元の人生に戻る必要はなく、むしろ戻ってはいけないのです。
作家のパオロ・ジョルダーノが「大きな苦しみが無意味に過ぎ去ることを許してはいけない」といっているのはその通りだと思います(『コロナ時代の僕ら』)。
どんな苦しみもそれを経験した時にそこから何かを学びたいと思って私は生きてきました。実際、多くのことを学ぶことができたと思います。しかし、私は「大きな苦しみが無意味に過ぎ去ること」を許せなかったのではありません。
私が経験したことはたしかに苦しみではありました。それでは、病気から回復した後、苦しくはなくなるのかというとそうではありません。仏教の教えによれば、私たちが生きていることがそもそも苦なので、これやあれやの苦しみの経験を切り抜けたからといって、生きることそのものが苦しくなくなるわけではないのです。
(続きは本書をお楽しみ下さい)
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