先行きが見えない、不安な時代をどう生きていけばいいのか。アドラーをはじめ、プラトン、デカルト、三木清など、古今東西の賢人の言葉を挙げながら、コロナ時代の新しい考え方を説いた一冊『これからの哲学入門 未来を捨てて生きよ』より、一部を抜粋してお届けします。
(記事の終わりには、刊行記念オンラインイベントのご案内があります)
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どうなるかわからない未来は捨てて「今」に集中する
今日の幸福を明日にまで永続させることもできません。自分が望むことが必ず実現するようにと願っても、明日という日に一体何が起こるかは誰にもわからないのに、まして、きっと明日は光が差し込むと期待してしまいます。
これが三木が「頼むべからざるものを頼みとする」ということの意味です。どうなるか誰にもわからない未来を頼みにはできないことを知れば、明日という日がくるのを待たないで、今日この日に幸福で「ある」ことだけを考えられるようになります。
幸福に「なる」のではなく、幸福で「ある」といったのには理由があります。
「過程」である成功は、明日を待ち明日を頼まなければなりません。つまり、何かを達成しなければ成功しないということです。私は母の病床で漠然と将来自分がどう生きようか考えていた時、まだ人生で成功することを考えていたのでしょう。
成功とは違って、幸福は明日を待たなくてもいい、「今ここで」幸福で「ある」ことができるということです。三木が、幸福は「存在」であるといっているのはこういう意味です。
今ここにある、あるいは今ここにしかありえない幸福を明日に永続させようと思わなくてもいいのです。もしも明日という日がくれば、明日という日に幸福で「ある」ことができるのです。
だからこそ、今日という日を今日という日のためだけに生きること、生きられることに喜びを感じることができるのです。
大切なことはそれほど多くない
次に、大切だと思っていたことのほとんどすべてが重要ではないことに気づきます。コロナウイルスの感染が広まる中、人と自由に会うことができなくなりました。そんな中、自分にとって、真の友は誰なのかを考えたのではありませんか。同居する家族との関係にも改めて目を向ける機会になった人もいるでしょう。
生きるために絶対必要だと思っていた仕事ですら、見直すことを余儀なくされました。もちろん、生きていくために働かなければならないという現実はありますが、自分にとって大切なことは「幸福」であって、働くことそれ自体ではなかったことに気づいた人は多いでしょう。
明日のこともわからないのであれば、今日苦しくてたまらない人生を生きることに意味はありません。本当に、これが自分のしたかった仕事なのか考え直さなければなりません。
自分の人生はいつまでも続くのではなく、明日という日がくることすら自明ではなくなることを知ると、三木清の言葉を使うと、輝いていたと思っていたものが光沢がないものであり、貝だと思っていたものがただの石であることを発見するのです(『人生論ノート』)。
今は世界中の人が同時に病気になったようなものです。はたして、何が生きていくにあたって大切なことなのかを考え直すきっかけが与えられたと考えたいのです。そう考えることができれば、大きな苦しみが無意味に過ぎ去ることはなくなります。
「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」(『詩篇』)
コロナウイルスが流行する今、人はいろいろなものを数えて生きています。感染者数や死者の数。危機が過ぎ去るまで後何日あるのか、等々。ジョルダーノはいいます。
「詩篇はみんなにそれとは別の数を数えるように勧めているのではないだろうか。われらにおのが日を数えることを教えて、日々を価値あるものにさせてください――あれはそういう祈りではないだろうか」(ジョルダーノ、前掲書)
私は、数えることすらしない人生があっていいのではないかと思うのです。二つの意味があります。
残り時間を数えない生き方
まず、「後」はなく、「今」のこの人生を生きることだけが与えられた現実だということです。
次に、数えることをやめさえすれば、「今ここ」が永遠になるということです。
バスケットボールの世界では、残り一分を「永遠」という、と伊坂幸太郎の小説の登場人物は語っています(『逆ソクラテス』)。
時間の中でプレーしていると思えば、試合終了までの時間がわずかしかない時、もう何をしても無駄だと諦めてしまうかもしれません。勝つとわかったら何もしないでボールをパスするだけの選手たちを見たら、試合には勝ててもはたして嬉しいのだろうかと思います。
反対に、時間を気にかけず懸命にプレーしている選手たちを見れば、たとえ負けることになっても、観客は感動しますし、選手たちも負けを受け入れることはできるでしょう。
このようなプレーができるためには、最後の一分を数えてはいけないのです。その一分を「永遠」だと思えれば、残りが一分を切っても勝敗を決するプレーができるかもしれません。
人は一分、二分ということではなくても、後何年生きられるだろうかと残された人生の長さを数えてしまいます。
プラトンは書きながら死んだと伝えられていますが、私は本を書く仕事を引き受けた時、はたして書き上げられるのかと不安になることがあります。しかし、そんなふうに数えてしまうと何もできなくなってしまいます。
永遠というのは無限に引き延ばされた時間ではありません。精神分析学者のフロムが次のようにいっています。
「愛、喜び、真理を把握することの経験は時間の中ではなく、今、ここに起こる。『今』と『ここ』は永遠である。即ち、無時間性(Zeitlosigkeit)だ」(Fromm, Haben oder Sein)
「バスケの最後の一分が永遠なんだから、俺たちの人生の残りは、あんたのだって、余裕で永遠だよ」(伊坂幸太郎、前掲書)
たとえこれまでの人生で取り返しのつかない失敗をした人であっても、人生をやり直せないということはないのです。数えるのをやめた時、人生は変わります。
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