西本願寺第25代門主・大谷光淳さんの新刊『令和版 仏の教え』は、仏教や浄土真宗にまつわる素朴な疑問に一問一答形式で答えた一冊。
「厄除けは必要ですか?」「キリスト教や神道についてどう思いますか?」「仏壇にお供えしたものは、いつ下げたらいいのですか?」「同じ仏教なのに、宗派が分かれているのはなぜですか?」など、誰もが一度は抱いたことのあるような疑問に、仏教の専門用語を使いすぎることなく、わかりやすく回答しています。
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厄年はどうやって決められたのですか? 厄年に注意することはありますか? 厄除けは必要ですか?
人の一生の中で、何歳の前後には災いが起こりやすいので、忌み慎むとされるのが厄年で、はじめて言われ出したのは、平安時代に遡るそうです。皆さんが「節分」として豆まきをする行事も、もとは「追儺(ついな)」という宮中の厄除け行事からきたものです。厄年にあたる年は、体力的にも、また家庭や社会環境が転機を迎えやすいタイミングであるとして、厄払いの祈祷を勧めるお寺や神社もあります。
ただ、浄土真宗に「厄」という考え方はありません。ですから、厄年に注意したり、厄除けをしたりする必要もありません。
たとえば重い病気になったとします。そんなときは、「このままずっと続いていくと思っていた日常が終わるかもしれない」、「健康には人一倍気をつかってきたはずなのに、どうして」などと自問自答してしまうのではないでしょうか。そして、「今年は厄年だった」と思い当たり、厄年だから病気になったのだと考えてしまうこともあるでしょう。
しかし、病気や死に向き合うことではじめて見えてくることもあります。
たとえば、病気で余命宣告された方の中には、その後、世界が変わって見えたという方がいらっしゃいます。ありふれた日常や、あらゆるものが当たり前ではないことに気づき、きらきらと輝いて見えたといいます。この方にとっては、病気は悪いことだけとはいえないのではないでしょうか。
阿弥陀さまの四十八願(しじゅうはちがん、阿弥陀さまが法蔵菩薩〔ほうぞうぼさつ〕であったときに私たちを救うために建てられた願い)の第三番目に、「悉皆金(しっかいこんじき)色の願」があります。
たとひわれ仏(ぶつ)を得たらんに、国中(こくちゅう)の人天(にんでん)、ことごとく真金色(しんこんじき)ならずは、正覚(しょうがく)を取らじ。
(『浄土真宗聖典 註釈版』16頁)
【訳文】
私が仏になるとき、私の国に住むあらゆる人々が、皆ことごとく金色に輝かないようであれば、私は決してさとりを開きません。
阿弥陀さまは、すべてのものがことごとく金色に輝かないのであれば、私はさとりを開くことはないと誓われ、さとりを成就されました。阿弥陀さまはさとりを開いた方ですから、すべてのものが、あるがままにそのままで金色に輝いて見えるのです。「厄年」というような、この年は災いが多く暗澹(あんたん)としています、ということはあり得ません。
病気になれば、これまでのように働けなくなるかもしれない。しかし、これは人間の「役に立つ、役に立たない」という価値判断によるものです。そんなことで、その人の輝きが左右されることはありません。あるとしたら、それは私たちの煩悩がその輝きを曇らせてしまっているということです。
親鸞聖人が書かれた『高僧和讃(こうそうわさん)』(七高僧の事蹟や教えをわかりやすく讃嘆されたもの)には次のようにあります。
煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 大悲(だいひ)ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり
(『浄土真宗聖典 註釈版』595頁)
【訳文】
煩悩に眼をさえぎられて、あらゆるものを救いとろうという阿弥陀さまの光明を見ることはできないが、その大いなる慈悲の光は、やむことなく常に私を照らしています。
これまでの人生で、すべて自分の思い通りになって生きてきたという人はいないでしょう。世の中のすべてのことが、私たちの心や気持ちの通りに進むわけではありません。自分に好ましくないことはたくさん起こります。そういうとき、心が波立つ。これが煩悩による苦しみです。
特に「老いる」「病気になる」「死ぬ」ということを避けることはできません。そのことを社会や自分の価値基準、つまり人間のものさしだけでとらえるのではなく、ただありのままに見つめるのが仏教の基本的な考え方です。
確かに、世界がありのままに見えてくるようになるということは、たいへんに難しいでしょう。だからこそ、それを超えて、阿弥陀さまの願いは私たちにはたらいてくださっているのです。