覚醒した、日本史大好き芸人・房野史典が、
「あの本を書いた著者に会いたい!」ということで始まったこの企画。
記念すべき第一回は、敬愛する歴史の先生、河合敦先生です。
河合先生の、『繰り返す日本史 二千年を貫く五つの法則』(青春新書)にハマった房野さん。
会って早々に「この本が面白いわけだ!」と気づきます。
そこから話が佳境に…。さっそく、河合先生の本の中の名言から!
* * *
先生は「はじめに」で、
全く同じ出来事は起こらない。けれど、似たようなことは何度も起こっている。
(「はじめに」より抜粋)
と書かれている。
本書以外でも、河合先生が度々おっしゃってる言葉です。
また、同じく「はじめに」で、
日本史の、ひいては日本人の行動原理と言うべき五つの法則を知っていれば、別々のものと思っていた日本史上の事件が、二千年の時空を越えて、一気につながって見えてくる。
(「はじめに」より抜粋)
ともおっしゃっている。
「繰り返す」と「つながる」。ニュアンスは似てるけど非なるものです。
河合先生は
「歴史は繰り返すものだけど、”同じ出来事”が起こっているのではなく、”共通点を多く持つ出来事”が起こっている」
という部分を強調したかったのではないでしょうか。あくまで私見ですが。
これ、解像度をもっと上げてお話ししたい。
でも、インタビューした素材が使えなくなるくらい長くなりそう。だからやめときます。
房「一発目にお聞きするのは、やっぱこれかな。『対外危機への”過剰な”反応』って、まさに今のコロナ禍を表してると思うんです。先生が書かれた中で大きいので言えば、世界恐慌、恐露病、黒船、元寇って、もちろん全部、数珠つなぎで似てるんですけど、コロナと一番状況が似てるのはどれでしょうか?」
河「コロナと一番状況が近いのは、”恐怖的”に言うと、コレラかなっていう気はしますね」
房「あ、コレラですか」
河「はい。ものすごくパニックになって、デマが流れて。で、変な迷信とか暴動が起こったりして。それがなんかちょっと近いかな。コレラのパニックが近いですね」
房「なるほど。パニック的に」
河「はい、パニック的に。36度ぐらいのお湯を飲むとコロナが治るっていうデマが流れたんですが、それ、水だと思うんです(笑)。そんなの嘘に決まってるのに、みんなFacebookとかにあげてて。コレラのときも、そういうデマ的なものがいっぱい出回ったんです」
房「どんなものでしょう?」
河「ヤツデの葉っぱを玄関に吊るしておくとコレラに効く、とかね」
房「ヤツデの葉っぱ吊るすと効く。これぞデマみたいなデマですね」
河「そう、デマ」
房「すげぇ。あと思ったのは、恐露病とコロナ禍もメチャクチャ似てますよね。市民が過剰反応して、それが“逆転”する(このあと説明するよ!)」
河「そう。安易に恐れて恐怖して、なのに大丈夫だと思ったら慣れて平気……というパターン。まさしく今のコロナ慣れのパターンですよね」
房「怖いな。(袖山さんに)恐露病って知ってます?」
袖「知らないです」
素直な袖。
房「僕も、先生の本を読んで、ちゃんと知ったんですけどね」
明治時代、日本人の間に「恐露病」という病が流行った。本当の病気ではない。ロシアに対する恐怖にとらわれ、いつかロシアは日本に攻めてくるのではないかという過剰な対外危機意識である。
(「コロナは恐露病の再来か」より抜粋)
河「ロシアが侵略してくるんじゃないかって、ずっと怖れていたんですね。けど、結局、日本が日清戦争に勝ち、その後、日英同盟を結んだことから、だんだん変化していった。なんかいけるんじゃないか……そう思った途端、コロッと変わったってことですよね」
ロシアに対しての異常なまでの恐れ方。そこから急に態度が変わっ
購買部数を伸ばすために主戦論を煽る新聞(メディア)。正しい情報を国民に伝えない政府の失策。
ぜひ本で確認してください。常軌を逸した当時の日本は、コロナ禍の状況と酷似しています。
房「ロシアをメチャクチャ怖がってたくせに、そこからイケイケになっていく」
河「そうそう。コロナもそうですよね。最初はすごい怖がって、みんなステイホームだ! となっていたのに」
まさに『対外危機への"過剰な"反応』。
先生のおっしゃるように、“100年前~200年前の日本”と“現代の日本”を比べてみても、国民の特性は何も変わってない。扱うツールが進化してるだけです。
実は、なんとそれを、
河合先生ご自身が、身をもって体験することになるのです。
Facebookに投稿した記事が、ちょっとした事件を引き起こすなんて、ご本人も想定の範囲外だったんじゃないでしょうか。
河「自粛期間中、Facebookに僕が『旅行行きたい』と書いたら、もう、叩かれて(笑)」
房「あ、それ、本にも書かれてましたけど、僕、先生のその投稿、オンタイムで見ました」
河「あっ、見ました?(笑)」
ご存知ない方のために説明しますと、Facebookには、昔自分が投稿した記事が、タイムラインの冒頭に出てくる機能があります。「〇年前のあなたはこんなことをやってました」みたいに。
河合先生のFacebookで、“以前”行ったタヒチの写真が出てきたわけです。それでその写真をシェアしたところ、そこにこんな一文が添えられていたせいで、物議を醸したんです。
「南の島に行きたい」
それは、タヒチに行かれてから少し経った後の投稿だったらしいのですが—―。
河「2年前のタヒチの写真がダーンって出た……」
房「そこに『南の島に行きたい』ですもんね。僕は、ちょっと笑っちゃったんですよ。『そうだよなぁ。行きたいよなぁ』って。でも先生のとこへ届くコメントは『今はダメです』とか」
河「『先生、我慢ですよ』とか」
袖「それって、攻撃的な感じのコメントだったんですか? それとも、笑ってくれてるのか」
河「結構、真剣に。いくつも来ましたね。1つ2つじゃなくて。いくつも。“友達”の人たちから」
袖「それはちょっと怖いですね」
河「はい。怖いですね~」
行くわけねーじゃん、て話ですが。
コメントを送った人は、「ほっといたら先生が南の島に行っちゃう!」と思ったのかしら?
おそらく大部分の人が「世の中が大変なときに、何を言ってるんだ」とか「みんな外に出るのを我慢してるのに、何が南の島だ」って感情だったんでしょう。
子どものちょっとしたおフザケの言動にすら「ダメよ! そんなことやっちゃ!」と機先を制して才能の芽を摘み取っていく、ブッチギリで教育を間違ってる母親のようです。
房「でもこれ……ちょっと話が飛びますけど、まさに4章の『和を尊び団結を重んじる一方、他人の自由を許さない傾向』ですよね。僕らの大多数は、元をたどっていくと、昔は農民じゃないですか。で、農民にとっては“惣村”や“一揆”がとても重要で……」
本の中にも書かれてますが。
”一揆”には、鍬や鎌を持って「年貢を下げろー!」という武力行使のイメージがあるかもしれませんが、本来の意味はそうじゃありません。
「目的の実現のために仲間同士で団結すること」、もしくはその集団を、一揆と言います。
房「惣村や一揆をずっと保っていたわけです。上に抵抗するため、自分たちを守るためにも、この和を崩しちゃダメじゃないですか。それで、そこからはみ出た奴には、もう、とんでもない制裁を加える。本の中にあった九条政基さんの日記の話みたいに」
河「さすがですね。読んでますね」
房「はい。(袖山さんに向かって)九条政基さんていう公家がね、ある村を支配することになるんですけど、そこで盗みを働いたやつがいたんです。で、その村の農民たちは、盗んだ者と、その兄弟母親を殺しちゃうんです」
政基はその過酷な処罰を知り、日記の中で「なにも殺すことはなかろうに」と、村のやり方に不快感を示している。
だが、村人たちにとってこの仕置きは、しごく当然のことだった。巫女母子が犯した罪の重さは、盗みではなく、村の団結を乱したことにあった。自分だけおいしい思いをすればよいと考える人間が村にいることは、自治の崩壊を意味していたのだ。
惣村にとっては、団結こそがもっとも重要な武器だったのである。
(「お上にひれ伏す弱き民」は正しいか」より抜粋)
房「これって、もちろん昔も良くはないことだけど、それでも、ギリで……当時は集団の生き死にがかかってるっていうのがあったと思うんです。けど、今は別に誰かが集団からはみ出たところで、その集団が命の危険に晒されることって、そうそうないじゃないですか。それなのに、さっきのFacebookの話じゃないけど、自分と違う行動をとる奴に対しては、とにかく不寛容。昔の"制裁の部分”が、現代に色濃く残ってる気がするんです」
河「残ってますね。だから私もFacebookのコメントには、メチャクチャ反論しました」
房「そういえば、返信されてましたね」
河「ビックリでした。ええ。たしか、戦時中の同調圧力みたいだなっていう書き方を僕がしたと思うんですが、そしたら反論的なコメントもきましたね。その時、僕は、コロナとの戦いは長くなるよって話もその時にしました。実際歴史を見れば、コロナは長くなるんです、絶対」
房「そうですよね」
河「はい。スペイン風邪も、落ち着くまでに2年ぐらいかかりましたね」
房「ああ、なるほど」
袖「やっぱりそんなにかかるんですね」
河「コレラは幕末から始まって、大正時代までかかってますよ」
房「えっ?」
河「大正でほぼ制圧された感じですね。コレラは幕末っていうイメージが強いかもしれませんが、明治20年代も、猛烈な流行でした。その後、今度は、赤痢が大流行して。コロナも、やっぱり何年かかかるんじゃないですかね」
近頃ずっと頭の中にあった、ある言葉が、先生のFacebookの一件を知って、さらにボワンと大きくなりました。
和而不同(和して同ぜず)。
"調和"や"協調"を大切にするのはとても素敵なこと。ですが、信念のない"同調"なんて害悪でしかありません。
"協調"と"同調"は、本来別の者。しかしこの2つが混同されてるのが今の世の中。警鐘が鳴って鳴って、やかましくて仕方ありませんね。
河合先生とお話するのは、やっぱり楽しい。
本を読んで思ったことも、そこから派生した僕の考えも、驚くほど柔らかく受け止めてくださるから。
受け止めてくれた上で、またさらに面白い話を投げてくださるんだもの。野球教室にやってきたプロのピッチャーが、子どものためにキャッチャーをやってくれてる感じに近い。
せっかくプロがキャッチャーをやってくださってるんだ。まだまだこの機会を存分に楽しまなきゃ。
ってことで、今回僕が一番先生とお話ししたかったテーマをぶつけることに。
第5章が最高って話です。
房「もう、僕、本書の最後の締め方が超好きで。ラストに『教育力と模範力の高さ』を持ってこられてるじゃないですか。これが、本の締めくくりとして最高で、すごいフワッ……て良い気分になれて、気持ち良~く、心あったまって終わったんです」
河「ああ、良かったです(笑)」
房「これまでに紹介した1章と4章は、どっちかといえばマイナス面。『日本人にはこういう傾向があるよ。でも、それを反面教師にしましょうね』っていうメッセージかなと思ったんですね。もちろん1章も4章も、2章も3章もメチャクチャ面白いんです。でも、ラストの5章で書かれてるのは、ズバリ”日本人の良さ”。ここがあったじゃないかと」
誇らしいんですよ。日本人の教育力と模範力の高さが。
まず、当時の日本人の”好奇心”がヤバすぎる。
房「マジでもう笑っちゃったんですけど。戦国や江戸時代に日本に来た外国人って、日本人から質問攻めに合うんですよね(笑)。「お前の持ってる物は何だ? どうやって使うんだ?」とか、「自分の作った詩を添削してほしい」とか、とにかく好奇心を爆発させて付きまとうから、外国の人が辟易したんですよね(笑)」
日本人のはじけた好奇心は、さらにとんでもない技術力を生み出します。
房「で、日本人の取り込む力というか、模倣力が凄まじいですよね。幕末にペリーが蒸気機関車の4分の1の模型を持ってきて……模型といってもちゃんと走る、すごく精巧なやつを日本に持ってきたわけですが、それを1年後に日本人が完成させたという話には、また笑ってしまいました(笑)」
ペリーとほぼ同時期に、長崎にロシアのプチャーチンが来訪、日本に開国を求めた。この折、やはり軍艦に汽車を積んでおり、武士たちに一般公開したのである。佐賀藩の学者たちがこのとき実物を見て、書籍を参考にして独力で作り上げてしまったのだ。
(「なぜ、あっという間に模倣できたのか?」より抜粋)
外国人「これ、蒸気機関車って言うんですけどね。どうです、私たちの技術力はすごいでしょ?」
日本人「たしかにすごい!」
1年後。
日本人「見よう見まねで、蒸気機関車つくってみました」
外国人「つくってみました!?」
こんなもん、最高の”ボケ”です。
房「あと、この人。国友さん」
河「国友一貫斎。あまり知られてないんですけど」
房「この人、とんでもないですよね」
河「江戸時代に天体望遠鏡をつくったんですが、歪みがないという!」
現在、一貫斎の望遠鏡は四台現存するが、なんと、青銅(銅と錫<すず>の合金)製の主鏡は、百八十年経った今も錆びておらず輝いている。劣化しない銅と錫の配分をどうやって知ったかはいまだに謎をされている。
また、二〇一九年に国立天文台に依頼して主鏡を調査してもらったところ、主鏡の「ゆがみ度」は、現在のそれと比較しても遜色ないことが判明した。まさに驚嘆すべき技術力だといえよう。
(「なぜ、あっという間に模倣できたのか?」より抜粋)
房「日本人の技術力、化け物じゃないですか!」
袖「誇らしい~!」
房「めっちゃ嬉しくなりますよね。ヤバいですよ、この人」
河「そういう人が、結構いたんですよね」
房「こういう人が何人も?」
河「たとえば、ノーベル賞を獲ったソディというイギリスの学者が、1
世界中でドデカい「そんなことある?」の声があがったに違いありません。
河「『和算』っていう非常に高等な数学が江戸時代にありました。めっちゃくちゃ難しい問題をみんなで出し合って、解けたらそれを神様に感謝するために、問題と答えを奉納したんです。それを書き込んだものを『算額』っていって……」
房「あ、絵馬に書いたやつ」
河「そうです。その算額を見るとわかるのですが、もう本当に世界レベルに達してる数学を解いちゃってるんですよね。それだけ日本には、知的好奇心が高くて、頭も良い人たちがたくさんいた。だから、日本を近代化させたのは、明治政府の中心だった“薩摩や長州”ってわけじゃないんです」
房「技術者をはじめとした、国民の力だ」
河「そうなんです!」
袖「あっ、良い話!」
明治維新のあと、数十年で欧米に追いついた日本の技術力。
しかし実は、江戸時代にはすでに下地が出来上がっていた。そのポテンシャルが、やがて世界に知られていった様を想像すると、ワクワクが止まりません。
でも、何故そんな底力が?
日本人は、どうやってその力を培ったの?
その答えも、この本には書いてあります。
答えはズバリ教育です。
~さて、その「教育」とは一体⁉ 続きは「河合敦先生に会いにいったよ!最終回」で。
【今回の芸人房野が会いたい著者】
河合敦先生
1965年東京都生まれ。青山学院大学卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学(日本史専攻)。長年、高校の教員をしながら歴史作家・歴史研究家として、数多くの著作を刊行。現在は多摩大学客員教授。早稲田大学でも教鞭をとっている。『都立中高一貫校10校の真実』『岩崎弥太郎と三菱四代』『吉田松陰と久坂玄瑞』『世界一受けたい日本史の授業 あなたの習った歴史教科書は間違いだらけ!? 』『早わかり日本史』『これならわかる!ナビゲーター日本史B』『日本史は逆から学べ!』『繰り返す日本史』など著作多数。
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芸人・房野史典が、ある日「応仁の乱」について記事を書いたところ、覚醒!
以後、『超現代語訳 戦国時代』『超現代語訳 幕末物語』『13歳のきみと、戦国時代の「戦」の話をしよう。』など人気作を次々に出し続けている。
「著者」になってみて、「本を書く人」のことが、どんどん気になり始めた房野芸人。
めっちゃ面白かった本は、「めっちゃ面白かったです!」と直接伝えたい。
めっちゃ気になる人には、「この本についてもっと教えてください!」と言いたい。
そして「この本が面白かったことや、書き手の方がいかに魅力的かを、自分の口から言いたい!」
なによりも「好きな書き手の新刊は、みずから宣伝の一端を担いたい!」
ということで始まった連載です。