覚醒した、日本史大好き芸人・房野史典が、
「あの本を書いた著者に会いたい!」ということで始まったこの企画。
記念すべきひとりめは、敬愛する歴史の先生、河合敦先生。の、今回は最終回です。
明治維新のあと、数十年で欧米に追いついた日本の技術力ですが、実は、江戸時代にはすでに下地が出来上がっていたのです!
何故そんな底力が? 日本人は、どうやってその力を培ったの?というところからの続きです。
* * *
その答えも、この本には書いてあります。
答えはズバリ教育です。
十八世紀の後半になると、江戸時代の日本では「教育爆発」と研究者たちが呼ぶ現象が起こる。
日本人の教育熱がにわかに高まり、多くの庶民が率先して寺子屋という初等教育機関で学び、結果として読み書きができるようになっていくのだ。
(「なぜ「教育爆発」は江戸時代に起こったのか」より抜粋)
房「江戸時代に寺子屋ができて『教育爆発』が起こったおかげで、幕末のとき日本に来た外国の人が、みんな驚いてるんですよね。日本の教育力の高さに」
河「そうですね」
房「ヨーロッパのどの国と比べても、『日本の教育がたぶん今一番高い』って言って。すごくないですか?」
河「字が読めるっていうこと自体がすごいっていうことですからね、当時は」
房「識字率、もしかしたら、日本ってその時……」
河「たぶん世界一でしょうね」
房「すごくないですか(笑)? あと、僕これ、まったくイメージなかったんですけど、当時の日本って”体罰らしい体罰がないんです"よね。たとえ子供がやかましく泣いたり叫んだりしても、『子供ってそういうもんじゃん』って、叩いたりしない。『柔和と良教育とを以て誘導せねばならぬ』っていうのが当時の大人の解釈で、それにオランダの商館長が驚いてる。ヨーロッパだと、鞭(むち)を持って叩いたりするのに」
河「そうです。怒らないんですね、あんま激しく」
袖「良い国民ですね」
河「そうですね」
房「現代で体罰が問題になると、「旧態依然とした体制」って言ったりしますけど、“ホントの大昔”には、体罰なんてなかったんだなって」
河「そうです、はい。明治になってからですね。先生があんなに偉くなったのって。あと寺子屋は、教育も個別。習熟度別の個別授業をしてましたからね」
房「そう、そこです! ムッチャクチャ良いなって思ったんですよ」
授業は、素読といって一斉に本を読む学習もあったが、多くは習熟度別の個別学習の形態をとった。つまり、寺子屋の師匠がそれぞれの子どもたちに適した教材や教科書を選んで学ばせたのである。
(「なぜ「教育爆発」は江戸時代に起こったのか」より抜粋)
房「現代の公教育をガラッといっぺんに変えるのは無理ですけど、やってほしいですね、これ」
河「当時は、先生がほとんどボランティアっぽい感じでやってたからこそ、出来たんでしょうね。“先生の仕事”で生活するようなことはなかったですから」
房「う~わっ! すごい。マジですか?」
河「ご隠居さんとか、お寺の住職とか。そういう人たちが、ほとんど儲けず、来る者にどんどん教えてあげて。そうなると先生が尊敬されるんです。『先生って素晴らしい』って、自分の親の次ぐらいに尊敬をしてくれるので、先生の方も、もっと教えてあげたいとなる。現代は、逆じゃないですか。生徒やその親が先生をバカにして、先生の地位が低くなって、尊厳っていうのがないので」
房「なるほど。今は、ちょっと負のサイクルですよね。先生をバカにして、地位も高くない。そうなると先生も愛情を注いで教えられない」
河「そうです。東京都の小学校の教員の倍率、去年か一昨年あたりは、1.8倍ですからね。1倍レベルになるとアウトですね」
房「なりたければ、すぐなれちゃう倍率ですね」
河「すぐなれちゃう。僕の時は、高校日本史の教員は40倍でしたから……」
袖「40倍も!?」
河「はい。今の日本は、若者が教師になりたいっていう国じゃないんです。だから、危機的な状況なんです」
房「本当に危機的状況ですね。先生、本書の最後に『教育力と模範力の高さ』を持ってこられたのは、やっぱ『いや、もう、頼むから教育をちゃんとやろうよ」っていう思いが……?」
河「そうですね。国民のせいで若者が教師になりたくない国になって、その結果として、ますますおかしいことになるよっていうことに気づいてもらいたくて」
房「本当にそう思う。僕は別に教職に携わってもないし、教育畑にいるわけじゃないけど、でも、子どもに歴史を伝える機会が増えてまして」
河「ああ、そうですよね」
房「はい。もう、どうにかその子たちが……簡単に言えば『幸せになってほしい』って思うようになって。そのためには、やっぱりちゃんとした教育が必要だと思うんです」
河「施設がいくら立派でも、中にいる教員次第ですからね」
房「本当に、まさに」
高校の先生を辞められた後も、河合先生はずっと教育について考えているんだな。
この国は教育によって飛躍したのに。その大切な過去を疎かにしようとしている。
ずっと歴史の研究をしてきて、日本史教師でもあった先生からすれば、こんなに歯痒いことはないのかもしれません。
房「ムチャクチャ両刀ですね、先生」
河「両刀ですね、はい」
いきなり申し訳ありません。なんのこっちゃ、ですね。会話の流れをむちゃくちゃ端折ってしまいました。
歴史の話を分かりやすく話すのは難しい。分かりやすい歴史の本を書くのも難しい。
どちらもすんごく技術がいるけども、どちらかを生業にしてる人はまあまあいます。
んが、“どちらとも”となると……つまり、分かりやすい歴史の本を書き、それを分かりやすく話せる人になると、その人数はグンと減るよねー。
しかも、それが「通史」になれば、マジでほんの一握り(専門家ほど、時代や対象を絞って研究する方が多いからです)。数える程度の人数しかいないよねー。
という話の流れから、「先生は両刀ですね」「はい両刀です」に行き着きます。
すなわち、「書くこと」も「話すこと」も。「通史」も「歴史の一部を切り取ること」も。……という意味です。
河「でも、“両刀”になるとは思わなかったですよね。そもそも歴史の本なんて書くつもりなかったので」
房「教員やられてる時に描き始めたんですよね?」
河「最初に行った学校が養護学校(特別支援学校)でした。そのときの学校周辺の城の歴史を研究して雑誌に投稿したら、賞をもらったんです。で、次に赴任した所が定時制高校だったのですが、ちょっと大変な学校でして。でも、定時制だから昼間は空くんですよね。そのときは、たまたま大学時代にお世話になった教授と会って、「そんなに歴史を研究してるんだったら、昼間、大学院においでよ」って言ってくれて。そこから本格的な歴史研究に入って、っていう流れです」
房「うわ、なんかタイミングがすごい」
河「そう、ラッキーなんですよね~」
房「すごいですね」
河「次に行った学校は普通科なんですけど、生徒がとんでもなく悪くて(笑)」
房「いわゆる荒れた学校だったんですか?」
河「荒れてましたね。僕、生活指導主任を押し付けられて(笑)。“年間特別指導”が70回も80回もあるような学校で」
袖「70回80回って、1日おきとか2日おきにやる感じですね! どんなことするんですか?」
河「はい。保護者を呼んで校長と一緒に謹慎の“申し渡し”をして、反省文を読んだりして、いろいろ話して、指導して。で、3日ぐらい経つと、“解除”のためにまた親呼んで『解除します』って言う(笑)。それを延々とやってた感じで」
房「う~わ……えっ? そういう学校って、授業はどんな感じになるんですか?」
河「授業はね、面白くしないと聞かないんですよ。だから、もう、一生懸命面白く、分かりやすくしました。コスプレしたりね」
房・袖「コスプレ!?」
再び重なる房と袖の声。
河「新選組の羽織を着たりとか(笑)」
そんな涙ぐましい努力を……。
僕が河合先生の同僚だったら、そっと抱きしめてる。
で、バレないようにちょっと笑う。
房「それをやったら、やっぱ生徒は……」
河「ええ。聞くんですよ。定時制の時はあんまり聞いてくれなかったですけど、普通科の学校に行ったら、そこそこ聞いてくれて」
房「それはすごい……」
河「そこで話術が磨かれましたね。いかに自分の話に惹きつけ続けるかっていう技術」
房「やらなきゃしょうがない状況だったから、そうなったってことですよね?」
河「そうです。辞められないしね」
房「もし先生が、普通に授業を聞く生徒さんの前ばかりで授業してきてたら、今も教員を続けてる可能性が……?」
河「間違いなくやってるでしょうね。楽しくそのまま終わってた!」
房「なるほど! 面白いな~! そうやって喋りと文章が磨かれて、今の河合先生が出来上がったっていうことですよね」
河「うん。そんなだから、本当に、運がよかったのか、運が悪かったのか分かんないですけど。喋りはそれで鍛えられましたね。本については、20代の前半ぐらいで研究を始めて、雑誌で原稿を書くようになって……みたいな感じです」
房「すっげぇな~。とんでもない環境に放り込まれて、そうするしかないってなると、進化するんですね、人間て」
河「そうですね、ポケモンみたいなもんで(笑)」
ポップ。恐ろしくご苦労なさった話の最後の喩えがメチャポップ。
対談中は、興味津々すぎて「すげぇー!」なんて陽気なリアクションを繰り返してしまいましたが、よくよく考えると、河合先生の辿られた道はあまりに凄まじい。
まともに授業が出来ない環境。その上で、授業以外に処理しなければならない業務の多さ。同様の悩みを抱えられた教師の方は、今このときもたくさんおられると思いますが、心身共に破壊されていく条件が整いすぎてます。
そんな環境下、河合先生は歴史の論文を書き、生徒に伝わる授業を工夫して、今の先生に繋がる素地を整えてきた。
生物が陸で生活するために肺呼吸を覚えたように、飛行することを余儀なくされて、鳥に翼が生えたように。
そうせざるを得なかったと言えば簡単ですが、並大抵のメンタルと努力だったら、置かれた状況に打ちひしがれたまま、時を重ねていくことになっていたでしょう。
知れてよかった。歴史業界でバリバリに活躍される先生の、源泉を知れてよかった。
そしてもう一つ。なぜ先生があんなに穏やかで優しいのか。その理由も少しわかった気がする。
答えはすごくシンプル。
以前、先生とお話しした時に、「金八先生に憧れて教師を目指した」とおっしゃっていたんですが、海援隊の「贈る言葉」にある、あの歌詞こそ、今の先生そのものです。
—―人は悲しみが多いほど 人には優しく出来るのだから
大変な経験をなさった河合先生だからこそ、後進の僕らに柔らかい笑みを返し、何をしても、何を言っても優しく包んでくださるんだ。
うん、絶対そうだな。
袖「今日は本当にありがとうございました」
河「いえいえ、ありがとうございました。じゃあ、何かまた」
房「お忙しい中、本当にありがとうございました」
ここに書ききれなかった面白い話もたくさんあります。機会があれば、番外編で書こうかな。
河合先生が帰られた後、一口すすったコーヒーがやたらと美味しかったのを覚えてます。
元からお店のコーヒーが美味しかった可能性大ですが。
でも、充実した時間だった。
よし、頑張ろ。
【今回の芸人房野が会いたい著者】
河合敦先生
1965年東京都生まれ。青山学院大学卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学(日本史専攻)。長年、高校の教員をしながら歴史作家・歴史研究家として、数多くの著作を刊行。現在は多摩大学客員教授。早稲田大学でも教鞭をとっている。『都立中高一貫校10校の真実』『岩崎弥太郎と三菱四代』『吉田松陰と久坂玄瑞』『世界一受けたい日本史の授業 あなたの習った歴史教科書は間違いだらけ!? 』『早わかり日本史』『これならわかる!ナビゲーター日本史B』『日本史は逆から学べ!』『繰り返す日本史』など著作多数。
芸人房野、“あの本を書いた人”に会いに行く!
芸人・房野史典が、ある日「応仁の乱」について記事を書いたところ、覚醒!
以後、『超現代語訳 戦国時代』『超現代語訳 幕末物語』『13歳のきみと、戦国時代の「戦」の話をしよう。』など人気作を次々に出し続けている。
「著者」になってみて、「本を書く人」のことが、どんどん気になり始めた房野芸人。
めっちゃ面白かった本は、「めっちゃ面白かったです!」と直接伝えたい。
めっちゃ気になる人には、「この本についてもっと教えてください!」と言いたい。
そして「この本が面白かったことや、書き手の方がいかに魅力的かを、自分の口から言いたい!」
なによりも「好きな書き手の新刊は、みずから宣伝の一端を担いたい!」
ということで始まった連載です。