震災から八カ月。ついに僕らは宝塚市民になった。
以前住んでいた千葉県浦安市を転出して、兵庫県宝塚市に転入届を出したのだ。
我が家の場合、主な稼ぎ手は相棒なのだが、届けを出すとなぜか僕が「世帯主」ということになる。住民票は上から、僕、相棒、息子の順で年齢順に並ぶ。
宝塚市の市役所は、不思議な作りで、ちょっとヨーロッパの宮殿のようにも見えた。上の通路の方にアンドレを立たせて「オスカール」と呼ばせても良さそうだ。いや、アンドレが「オスカール」と呼ぶのは橋の上だったが。
しかも市役所の入口のところは、ちょっとしたホールのようになっている。タウン・ホール。舞踏会などもできそうな感じだ。
そして、宝塚市民になった記念というわけではないが、息子を市内の託児所に預けて、僕と相棒は宝塚大劇場に行き、宙(そら)組の公演でミュージカル「クラシコ・イタリアーノ」とショー「ナイス・ガイ!!」の二本立てを鑑賞した。
僕が宝塚歌劇を生で観るのは、今回が二回目。もっと観ているような気がしてしまうが、それは相棒がCS放送の「タカラヅカ・スカイ・ステージ」を契約していて、浦安に住んでいたときはずっとそれがつけっぱなしになっていたからだ。相棒はもう三年以上は宝塚歌劇のファンをやっているが、僕はずっと、自分が生で歌劇を観ることはあるまい、と思っていた。僕自身が好きだったオーケストラの公演にも足を運べないのに、騒がしいミュージカルやショーなんて無理だろうと。
しかし、昨年の暮れに、宝塚歌劇の生公演を成り行きで観ることになってしまった。そのときは東京の日本青年館で行われた花組の「コード・ヒーロー」という演目だった。相棒が確保したチケットが当日一枚余ってしまい、チケットが無駄になるという話だったので、途中で退席するようなことになっても構わないと自分に言い聞かせて観に行った。そうしたら大丈夫だった。それが宝塚歌劇の生観劇の初体験。「コード・ヒーロー」は、取ってつけたようなオチが残念だったが、それ以外は純粋に楽しめた。
その後、僕は息子と無料のコンサートを聴きに行き、それから念願のオーケストラの演奏会を鑑賞することもできた。それが今年の二月だ。その後、映画館で映画も観て、すっかり自分のパニック症候群的な苦痛が解消したのを自覚した。だから、宝塚に住むようになってから、いずれ宝塚大劇場に足を運んで舞台を観ることになるだろうとは思っていた。
宝塚大劇場は、ともかく巨大だ。二千人も観客が入るそうだ。一つの演目が一カ月続くが、その回数はおよそ四十回。良くも悪くも、一回の公演を見守る客席の視線がなんとなく「ゆるい」感じなんである。団体のお客さんがいたり、関西弁のおばちゃんも多いし、僕の苦手な緊張感はあまりない。観客の八割は女性である。
演目と演目の間の休憩に、男子トイレに行くとすこぶる空いている。でも、大学教授っぽい風貌の初老の男性や、すっきりした顔立ちの若い男の子たちがいて、男の子たちは演劇関係者なのではないかと想像した。あとは僕のようにパートナーに連れて来られてキョトンとしている男。そんなのしかいない。
まあ、映画のレディース・デイともちょっと似ている。女性たちは連れ立って、お友達同士、仲間同士、親娘、時には親娘孫と三代揃って観劇に来ている。
開演時間になると照明が落ち「みなさま、ただいまより……」と、阪急電車のアナウンスにも似た標準語ふうのアクセントのナレーションがトップスターの声により放送される。そして幕が開くと、そこは夢のレビューの国だ。色鮮やかな衣装をまとい、大げさに体を動かし、男性よりも男らしい女性が主役を演じ、高い声の娘役がヒロインを演じる。テンポを高めたいときやドラマティックな場面では、セリフは歌に替わる。そしてダンス。照明、花束、紙ふぶき。後半のショーの最後には羽を背負ったスターたちが大階段を下りてくる。生のオーケストラが入っていて音響も抜群だ。
いやー、しかし。これは何かに似ている。
なんだか笑ってしまいそうで、実際笑ってしまうシーンも多いのだが、真面目なシーンでも笑いそうにもなる。輝くブラス、レトロジャズの響き、歌謡曲っぽい響き。そう、僕が懐かしさとともに思い出したのは、往年の名番組「8時だヨ! 全員集合」の世界だ。
「ザ・ドリフターズ」という五人組のグループを中心に作られたその番組は、おそらく僕と同世代の人間のコドモ時代に集合的な記憶として残っているだろう。コドモの視点からはコドモよりコドモっぽい、ときに下品なコントの連発に思えたそれは、高い音楽性と演劇性に裏打ちされたエンターテイメントだったことに今振り返るとびっくりする。
もちろん「ドリフ」はおそらくはフレンチ・レビューのパロディであり、タカラヅカはそれを真面目に現代日本に翻案しようとしている。そういう違いはあるものの、真面目にやろうとすると、より受けてしまうというところもある。
「タカラヅカ、ってドリフやな」
と僕が言うと、相棒も「まあそんな要素はしっかりあるよね」と同意した。
前半の「クラシコ・イタリアーノ」は、植田景子さんの作・演出だが、以前「スカイ・ステージ」の放映で「マイ ディア ニューオリンズ」というのを観て、退屈な脚本を書いているなあと思っていたので内容にはあまり期待はしていなかった。しかし、生で観ている迫力というのもあるし、主演の大空祐飛さんの雰囲気に圧倒されたということもあるが、テンポ良く内容を把握させ、すぐにミュージカル・シーンに持ち込むという流れで、いきなり「脚本家の成長」というところに感動してしまった。その後の展開や盛り上げ方は、いつもよく知っているタカラヅカの世界らしいものだったけど、脚本のキャラクター付けの甘さを演じ手が見事に補っていたり、逆に演じ手の未熟さを演出がうまく補っていたり、なかなかいいチームプレイをしているなあと、そんな鑑賞の仕方をしてしまっていた。でも、いきなりそれだけ観察して分析する余裕があったのだから、自分なりに相当リラックスして集中して観劇することができたんだろう。
そして後半のショー。これは掛け値なしに面白かった。これは作・演出が藤井大介さんという方だ。よくありがちのジャズメドレーや、ショーアップされた短いシーンを積み重ねていくのだが、途中「お?」と思うような場面が挿入される。
最初に驚いたのは、レトロな学生服を着た美青年が、薔薇の妖精たちに囲まれ、巨大な弦月を背景に幻惑されていき、最後に気絶して担ぎ上げられて連れて行かれてしまう。
「な、なんだか丸尾末広の世界のようじゃないか」
丸尾末広さんというのは、相棒も好きだった「ガロ」という雑誌で良く描いていた漫画家さんだが、なんというか耽美とグロとレトロな世界が入り混じった「猟奇的」な作品を描く方である。
さらには、なぜかピアノ伴奏だけで「合唱部」のように歌う音楽を背景に、人体だけで波や風を表現する場面も登場。
「これって、アングラ魂炸裂?」
アングラ、とはアンダーグラウンド演劇、の略だ。地下芝居と言われる、決してメジャーになれなかった世界だが、僕が少年期・青年期を過ごした頃はまだそういうものがあって、アングラに狂っちゃったお兄さんお姉さんが近所にいたりしたものだ。そんなアングラ演劇で表現されたような手法を、タカラヅカ風に翻案し洗練させて、こっそり挿入しているんじゃないか。ううむ、おそるべし。
と、そんなような感想を、公演終了後に相棒に語ってみたのだが。
「なるほど、そんなふうに見たんだ。新しい視点だな」
と一蹴されてしまった。
それから、宝塚歌劇を生で観て発見したのは、観る前は「女性が男性を演じているのを見続けるのは、何か違和感があって気持ちわるいのではないか?」と思っていたのだが、実際見続けると「男より男らしい男役」というのにはすんなり馴染めてしまう。いっぽうで不思議なことに、そんな男役たちが、演出の都合上女性の格好をして踊ったりするときがあるのだが、それがどうしても「女装した男性」に見えてしまい、こっちのほうが気持ちわるい。おそらくは舞台上だけの世界ではあるが、ちょっとした手足の動かし方や歩き方などに「男らしさ」のコードが潜んでいて、男役たちはそれを「自然に使う」ことができるくらい会得している。しかし、それを会得したことにより「使わない」ことのほうが難しくなってしまうらしい。これはたぶん、歌舞伎の女役がスーツ姿で会見しているときの違和感とも同じかもしれない。
そんなこんなで、宝塚歌劇、しっかり楽しんで参りました。
宝塚市民になった記念にもう一つ、衛星アンテナも購入した。これでまた、我が家では「タカラヅカ・スカイ・ステージ」が延々と流れている生活に突入してしまった。住民としても、文化としても宝塚シトワイヤン(市民)である。寒い冬に備えてガス暖房も買った。
あとは息子の通うべき保育所、あるいは幼稚園についての相談に行けば、ほぼやるべきことは完了である。
ツレ&貂々のコドモ大人化プロジェクト
『ツレがうつになりまして。』で人気の漫画家の細川貂々さんとツレの望月昭さんのところに子どもが産まれました。望月さんは、うつ病の療養生活のころとは一転、日々が慌しくなってきたのです。40歳を過ぎて始まった男の子育て業をご覧ください。