作家・道尾秀介さんの著書の累計発行部数が、1月7日発売の『風神の手』(朝日文庫)の刊行をもって600万部を突破します。
それを記念して、文庫を刊行している版元10社(朝日新聞出版、KADOKAWA、幻冬舎、講談社、光文社、集英社、新潮社、中央公論新社、東京創元社、文藝春秋)が共同して書店フェアを開催します。
フェアにともなって、大ベストセラー『向日葵の咲かない夏』や最新刊『風神の手』の文庫に解説を寄せ、道尾作品をこよなく愛するミステリ評論家の千街晶之さんを聞き手に、フェア参加の10作品を道尾さん自身に振り返っていただきました。
デビュー作『背の眼』から最新刊『風神の手』まで、どれから読んでも傑作ぞろいの道尾作品の魅力をぜひ感じてください。
* * *
デビュー作には作家のすべてがある『背の眼』
――2005年刊行のデビュー作ですが、今から振り返ってどのように感じますか。
道尾 書き始めたのは18年か19年前ですが、「レエ……オグロアラダ……ロゴ」という謎の声を仕掛けに使うことを思いついた瞬間は、いまだに鮮明に覚えてます。読み返すと、やっぱり京極夏彦さんの影響を受けているのがわかりますし、あとは主人公が道尾秀介という作家だという設定は、今だったら恥ずかしくて書けないかもしれない。でも当時はデビューしていないから、道尾秀介という人物は世の中に存在していなかったんですね。だから何の違和感もなくて、しかもエラリー・クイーンとか法月綸太郎さんとか、不勉強で読んでいなかったので、語り手=作者の名前という前例があるのを、なんと知らなかったんですよ(笑)。自分が思いついたと思ってたぐらいで。
――デビュー作の時点で、何気ない嘘が回り回って人の運命を狂わせるというテーマを書いているあたり、道尾さんはこの時期から道尾さんだったというのを強く感じます。
道尾 好きなものは変わらないというのは僕も読み返して思いますね。この作品のように横溝正史の岡山ものの世界観が好きなんです。5月に新潮社から出る予定の最新作『雷神』も、閉鎖的な田舎町で起きるミステリなんですが、最新作まで好みが変わってないのは嬉しいことです。
本格ミステリ大賞を受賞した『シャドウ』
――『向日葵の咲かない夏』もそうでしたが、初期の道尾さんは、少年を主人公にすることが多かったイメージがあります。
道尾 女性だったり老人だったりという経験はないけれど少年だったことはあるので、いろんな感情をヴィヴィッドに覚えていて、生々しく書くこともできるし、逆に戯画化したキャラクターも作れるんです。また、時代が変わっても少年って同じようなことを考えて同じようなことで悩んでいるので、どの年代の人が読んでも共感できる普遍的なものが書けるという思いもあります。しかも少年って多感だから、物語に巻き込まれやすいんですよ、大人よりも。
――本格ミステリ大賞を受賞していますが、道尾さんにとって理想の本格ミステリとはどのようなもので、この作品はそれにどこまで近づけたのでしょうか。
道尾 本格ミステリとは何かいまだにわからないですが、どんな起承転結を持っているのが本格ミステリなのかがモヤモヤと見えてきて、そこで一回勝負してみようと思ったのが『シャドウ』でした。当時の僕が抱いてた本格ミステリのイメージを100パーセント反映させた作品です。
動物好きな側面が前面に出た『ソロモンの犬』
――道尾さんの小説はタイトルに動物が含まれる作品が多いですが、これは特に動物を前面に出した話になっています。
道尾 単純に動物が好きというのもあります。獣医師の野村潤一郎さんのファンで、本も全部読んでいて。また、喋れない生き物の気持ちを、ちょっとした行動から探るという動物生態学の手順が、ミステリと相性がよさそうだと思っていたので、そのアイデアを実際にやってみたかったというのもありますね。
――この作品には動物生態学者の間宮未知夫というユニークなキャラクターが出てきますが、ご自身のペンネームと同じミチオという名前を作中人物に使う基準は何ですか。
道尾 特に理由はなく、気分ですね。間宮未知夫の場合、ああいうコミカルで戯画化されたキャラクターって、ともすれば感情が離れがちで、傍観した視点で書いてしまいがちなんですが、生身の人間として見て書かないと……というのがあって、名前が同じだと感情移入しやすいというのはあるので、間宮もそんな思いで書いた覚えがあります。
青春の終わりを描いた『ラットマン』
――『ラットマン』はタイトルが示すような心理的な錯覚トリックの集大成という趣がありますね。
道尾 「ラットマン」や「ルビンの壺」みたいな錯視図形は以前から好きなんですけど、実際にラットマンの絵を出して小説を書くのは、作家生活の中で一度しかできないですよね。だから、タイトルも『ラットマン』にして、ラットマンとは何なのかを突き詰めて、読者にもラットマンを見せていく……と徹底的にこだわりました。
――道尾さんはバンド活動もしておられますが、『ラットマン』でバンドの世界を扱ったのは、以前から書きたかったということでしょうか。
道尾 自分が深く体験したことは一度は小説に書きたいというのがあって、その中でも大きいのが音楽だったので、『ラットマン』で書かなくてもいつかは書いていたと思うんです。でも、光文社の編集さんとお酒を飲みながら打ち合わせをしていて、「青春の終わり」というテーマはどうだろうという話になったんですね。そのテーマと、もうバンドに人生捧げてる年齢じゃないよね、という虚しさや悲哀が上手く一致しそうだったので、ここで書こうと思いました。
コミカルさが際立つ『カラスの親指』
――コン・ゲームものであり、それまでの道尾さんの小説で、最もコミカルなドタバタ劇のタッチの作品になっています。
道尾 コン・ゲームも、いつか書きたいと思っていたテーマのひとつです。詐欺を書くということは必ず被害者が存在するわけで、それをシリアスに描くより、一歩離れたところから見るかたちにするほうが楽しんでもらえる気がして、そうするとああいうフェイキーな登場人物たちになるんですね。その一方で、ただただ詐欺が繰り返されるだけでは面白くないので、物語自体にひとつの大きな仕掛けを用意したんです。展開をスピーディーに派手にして、そっちに気を取られているあいだに裏でとんでもなく大きなことが起きている、という狙いで。
――道尾さんはあまり続篇を書かない印象があったので、『カエルの小指』という続篇を書かれたのは意外でした。
道尾 書いた一番の理由は、あいつらが今どうしているか知りたい、と思ったからです。あのエンディングのあとどんな人生を送っているか知りたかったし、無性に会いたかった。作品を書いたタイミングも『カラスの親指』の刊行からちょうど10年後だったので、物語自体も10年後の話にしました。
ホラーテイストの『鬼の跫音』
――道尾さんの小説の中でも、最もひんやりした印象の怖い連作です。
道尾 怪談にも近いし、ホラーと言ってもいいし、ミステリでもあって、他の短篇集には入れられない話ばかりです。ホラーはすごく好きなので、やるならここでやりつくしたかった。『向日葵の咲かない夏』のS君が頭の中に残っていたので、同一人物ではないけれど、時と場所を変えてSという人物が出てくる物語にしました。この本の収録作はどれもミステリとして理詰めで説明できます。「よいぎつね」だけは幻想譚……と評されることがあるんですが、あれも実は幻想でも夢でもなく、理詰めで説明できる読み方があるんですよ。そのへんも、是非読み解いていただければと思います。
――登場人物の誰をSにするかはどのように決めましたか。
道尾 物語のキーとなる人物ですね。でも主人公ではない。Sの心理は書かず、あくまで器であってほしくて、その中身を読者が埋めていくというかたちにしたかったんです。主人公の世界に大きな影響を与える、時には悪意に満ちた存在、時には自分のからだを犠牲にするほど主人公を愛している存在……いろんなタイプのSを書きました。
悪人を描くときの心理『龍神の雨』
――この作品の主人公である二組の兄弟(兄妹)もそうですが、道尾さんの小説には親を失った子供がよく出てきますね。
道尾 信条として持っているのは、他人のような家族より、家族のような他人のほうが絶対強い、ということです。その思いがあって『カラスの親指』では擬似家族を書きました。『龍神の雨』では、そこへさらに子供の未熟な心理が混じってきて、本当は強いはずの絆がまたねじれてしまう。そのねじれやゆがみを書きたかったんです。それで、血がつながっていない親と暮らしている子供たち、という設定をまず作りました。
――この小説には、道尾さんが描いた中でもトップクラスの悪人が出てきますが、悪人を書く時はどのような気持ちなのでしょうか。
道尾 何の理由もなく残虐なことをする人間って、世の中を見渡すといくらでもいますよね。僕は、何かやむにやまれぬ事情で罪を犯してしまう人も書きたいし、そういうサイコパスのようなキャラクターも書きたい。どちらかばかり書いていると、僕も読者も面白くないですから。
山本周五郎賞受賞作『光媒の花』
――前の話の登場人物が次の話で重要な役割を務める、リレー形式の連作ですね。
道尾 ミステリの短篇として依頼があって、まず「隠れ鬼」を書きました。でも単純な短篇集にはしたくなかった。本にするためのつなげ方を考えて読み返していたら、ラストシーンで隠れ鬼をしている少年が僕の中でクローズアップされていったんです。この少年は、どんな子なんだろうって。それで、脇役だった人物が次の主人公になっていくリレー形式の作品を書こうと思いました。前半は暗鬱な話で後半は希望のある話ですが、それは実際、世の中には光と陰があって、それらが半々で成り立っているという思いがあるからです。後半は自分が光に向かっていく気持ちで書きました。
――ミステリと純文学の両方の要素を入れた一冊という印象を受けます。
道尾 僕はそこの区別もよくわかっていないですけど、全部一人称ですし、語り手が6人いるので、文体も主人公に合わせて変える必要があります。でもそれぞれの語り手の心理の深いところまで入り込んでいかないと文体は変わってくれないので、そこが純文学的に読めるのかもしれないですね。
仮面の内側は他の人には見えない『笑うハーレキン』
――主人公がホームレスの家具職人という設定は、どのように生まれたのでしょうか。
道尾 僕と同年代の飲み仲間に家具職人がいて、仕事はどんな感じなのか聞いたら、面白い話がいっぱい出てきたので、家具職人を主人公にした話を書きたいと思ったんです。また、高校の頃とか、街で夜通し遊んで、明け方になるとホームレスの方とお喋りしたりしてたんですけど、異常にリアルな雀の鳴き真似ができるおじさんとかいるんですよ。生活スタイルによって、知識の守備範囲や特技が全然違う。その面白さを描きたくて、ホームレスの家具職人とその仲間たちを書きました。
――主人公の物語としては完結していますが、後半に出てくる謎の老人の正体や目的がわからないままだったりするなど、敢えてすっきりしない部分を残している意図はなんでしょうか。
道尾 主人公の過去は作中で説明されますが、奈々恵やホームレス仲間の過去など、はっきり書かれていないことが多いです。でも実際の人生ってそうじゃないですか。つきあった時間のことしかお互いに知らない。だからわからないところは、敢えてわからないまま残しました。仮面の内側は他の人には見えない、という本作のテーマと合致させたんです。
その執筆活動の集大成といえる最新刊『風神の手』
――最後に最新刊の『風神の手』についてお伺いします。この作品は、エピローグを含め全四章からなる長篇ですが、最初は第二章の「口笛鳥」を朝日新聞の夕刊に中篇として連載するというかたちで執筆されたんでしたね。
道尾 中篇を書くときも短篇を書くときも、大前提として、ひとつの作品として完璧なものをまず目指します。のちのち連作や長篇の一篇に使おうなんて思いながら書くと、質が下がっちゃうので。だからいつも、ひとつの完成品として中篇や短篇を書いたあとで、それをどうやって本にするかを考えます。『風神の手』の場合はひとつの町を舞台に、長い時間をかけていろんな物語が絡み合って、でも元を辿ればほんの小さな出来事が原因だった――という仕掛けにしようと思いました。そこで他の三章を書いて、この形に仕上げたんです。
――この作品の根幹を成す「風が吹けば桶屋が儲かる」的な発想というのは、道尾さんの小説にしばしば出てきますね。
道尾 かつてコナン・ドイルが「ジョン・ハックスフォードの告白」で書いたように、ほんの小さなことが大きなことの原因になる、その現象自体に強い興味があるんです。現実世界でも、何かの元を辿ればまた元があって、一番最初にあるのはものすごく些細な出来事だった、というケースがほとんどだと思うんです。その現象を、ひとつの町の中で起きた30年の物語として書きました。
――『風神の手』は、道尾さんの小説の集大成的な作品ではないかと私は思っているのですが、道尾さんご自身はどのように思われているのでしょうか。
道尾 主人公の性別や年齢が変わりつつ、長い時間が流れていくというこの作品は、やりたいことが全部できたという手ごたえがありました。長篇を書いているときなどは、どうしてもその作品には混ぜ込めない、水と油のようなアイデアも出てきます。でもこの作品は、性別も年齢も違う主人公たちだったので、思いついたアイデアをすべて詰め込むことができたんです。
――ここまで10作品を振り返ってきたのですが、ご自身の作品の自分らしいところはどこだと思いますか。
道尾 僕はただ好きなものを自給自足的に、本屋さんに売っていないから自分で書いているというような気持ちなんです。作家生活10周年記念の『透明カメレオン』は初めて読者のために書いた小説でしたが、それ以外はただ自分が好きなことを好きなように書いてきたので、これだけ読者がついてくれたのは奇跡ですよね。でも、そのスタイルが自分らしさかなと思うんです。これからも自分好みの小説を書くことで、読者の皆様に恩返しができればと思っています。
※2020年12月8日収録