手垢のついた身近な言葉に感情をのせる
車の中でキスをして
真っ暗闇の森の中
節電なんてレベルじゃないの
あたしらやっぱり
けだものでいたい「興味があるの」
震災後、計画停電が行われた。都心の繁華街は節電を強いられた。商業ビルや店が、灯りを一時消した。
その光景を見ておこうと、新宿に出た。
とても暗かった。懐かしい気持ちになった。その懐かしさとは一体何だったのだろう。幼少期の頃を思い出したからか。それとももっと遠く、動物だった頃の記憶か。
実際暗闇の中で動く人間たちは、動物に見えた。少しワクワクした。駆け出せる、そんな気持ちにもなった。私の中で歌の塊のようなものがゴソッっと動き出した瞬間だった。
ただその時は「歌にしてやろう」なんて思っていない。胸の横あたりに、ざわつきが少しあっただけだ。
私の場合、ざわめき、言葉、メロディー、の順で歌作りが行われる。だから「ざわめき」「ざわつき」がなかったら歌は出来ない。一種の職業病のようなところがあり、それが薄くなってくると不安になってくる。面倒なサイクルになってしまった。
歌はつづく
愛をぐしゃぐしゃに丸めて
口の中に出してもいいかな
君の髪を撫でていると
僕は君のお父さんか
君の子供にでも なったみたい
歌を説明するほど野暮なことはない。私が今したいのは、もう一度この歌の中の「流れ」に乗って、新しい旅をすることだ。
人間はかならず女性のお腹の中で育ち、女性から生まれてくる。女も男も、女から生まれてくる。この先変わるかもしれないが、今のところ、たぶん、そうだろう。
この歌は男が女に対して、君のお父さんか君の子供にでもなったみたい、と言っているが、たとえばこれが逆だったらどうだろう。
女が男に対して、あなたのお母さんか、あなたの子供にでもなったみたい、と。悪くない。そういう歌があったら聴いてみたい。
まあだから男でも女でもどっちでもいい。
でもちょっと想像したら、そういう歌、やっぱりあまり聴きたくないかも。そこに私のねじれがある。
ねじれは時として歌を生む。私の場合、ねじれの力を利用して作った歌が多くある。たぶん。でもそこは解明したくない。解明する時間があったらねじれをねじれのまま、歌を量産したい。
話が逸れた。歌はつづく
君のふるさとの春を教えて
君のふるさとの秋を歌って
僕は君に興味があるの
君の生きてることに
興味があるの
なんてことない歌詞だ。
なんてことない歌詞だけど、なぜかこの歌はリクエストが多い。
その理由は何となく分かる。
ラブソングだからだろう。
「アイ・ラブ・ユー」が取りこぼして来た感情が、この「君の生きていることに興味があるの」にはある。
私だって「アイ・ラブ・ユー」に色々な感情を込めて歌えたらどんなに楽しいだろうと思う。だけれど、その実力がない。歌手として、そんな能力は持ち合わせていない。手垢のついた、身近な言葉でないと、飛距離が出ないのだ。アイ・ラブ・ユーは最初から飛んでる。それを操るにはそれなりの能力がいる。
でも自分の身近な言葉なら、たいして飛ばなくても、内側の内側から飛んでいくから飛距離が出ているように感じるのだ。飛んでけー。そう、歌う時、入ったな、と思う瞬間って、言葉がものすごく飛んでいった感じがする時。ものすごく理解しているんだけど、意味が弾け、訳がわからなくなってる。そこに恍惚とする。
自分に酔ってるのか、と言われたら確かにそうで、自己完結というか、自己分裂に成功した感じなのかもしれない。性的快楽と少し違うのは、意味を噛み締めていって、言葉が熱でパンパンになり弾け飛ぶのが歌で、性的快楽は言葉をそぎ落としていく作業のような気がする。まあピロートークや言葉攻めもあるから、たいして変わりはないか。
君のふるさとの夏を教えて
君のふるさとの冬を歌って
僕は君に興味があるの
君の生きてることに
興味があるの
興味があるの
今日海が見たいの
歌は最後、ダジャレで終わる。まあその程度の歌だ。
森があり、川が流れ、海にたどり着く。
恋をした。流して来たものがあった。そしてまだ、私の中に流れているものがある。
もうすぐ春が来て、川がきらきらと輝くだろう。マスクを外して、思い切り息を吸い込めば、またたっぷりと命が芽吹くだろう。
私は今でもとてつもなく興味がある。
生きている限り、今日実があるのだ。
作詩入門
街の詩情を歌い続ける、シンガーソングライターの前野健太による歌ができるまで。
どんなとき言葉は生まれてくるのか? 言葉はいつ歌になるのか?