アフリカ・ガーナで現地法人を設立し、そのサービス開始直前、
31歳で舌癌を患い日本への帰国を余儀なくされた大山知春さん。
苦しい闘病生活、起業途中での挫折。
そんな彼女の心に支えになったのが、ガーナで触れた人々の生き方でした。
様々な「思考の呪縛」にとらわれず「今この瞬間を生きる」を実践するガーナの人。
昨日より、少し人生が楽になる考え方を紹介していく連載エッセイです。
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葬式で破産するガーナ人
ガーナ人の週末の過ごし方は、決まっている。
教会、葬式、たまに結婚式だ。
日曜日は、家族で朝から教会に行くのが一般的だ。
この中でも、葬式に対する気合の入れ方が半端ない。
一般的なミドルクラスのお葬式でも、平気で100万円ぐらいは使っていると思う。
ちょっと地位のある人ならば、新聞広告、路上に大きな看板も出る。
参列予定者全員に、これを仕立てて当日着るようにと、ファブリックを配る。
すると、一目瞭然で、参加者がわかるので、葬式の規模の大きさが誇示できるというわけだ。
そんなにお金持っているの?と驚くが、一家族だけではなく、親戚中からカンパをもらって、親族会議を重ねて、葬儀を行っている。
棺も、漁師ならば、魚を象ったもの。コーラが好きな人だったら、コーラ瓶を象ったものなど、個性的なデザインを特注する人もいる。
故人と対面する場面だけしんみりとするが、あとは、夜通し食べて飲んで踊る、地域をあげてのお祭りのようだ。
なかには、親の葬式を機に、タクシー運転手なのに車を売り、一文無しになり、タクシーをレンタルしながら仕事をしているという人に出会ったこともある。
一方、教会はというと、私たちが想像する教会らしい建物を有するものから、教会もどきまで様々だ。
隣家の静かな朗読会の正体
前のテナントから貸家を譲り受けたとき、隣近所について聞いてみると、
「おー隣はね、静かな朗読会を週に1、2回ぐらいやっているよ」と言っていた。
ところが、蓋を開けてみると、静かな朗読会のはずが、爆音を発する大合唱会だった。
騙された。完全に騙された。
そう思ってもあとの祭りだ。
何せ、ガーナは、2年家賃前払いだから。
水曜日の午後6時から、土曜日は朝8時から、マイクを使って上手くもない賛美歌が鳴り響く。
何を考えているのか、平日夜中の3時に突然始まったこともある。
叩き起こされ、激怒して、パジャマのまま、
「いったい、何時だと思っているのよ!」と、その場に乗り込んでみると、その場にいたのは、たったの4人だった。
かなり、こじんまりした民家の教会だった。
珍しいアジア人に圧倒され、その場は静かになったが、また数十分もすると同じことが始まった。
翌日、近所に住む物件の仲介に絡んだ人に相談すると、
「全く、クリスチャンの祈りはうるさいったらない。だから、俺は、イスラム教に改宗したんだ」
そんなノリで改宗するのか?
と、ツッコミたくなったけれども、神が何かではなく、神に祈るということに意味があるのだろうか。
神に祈る人たち
オランダに留学中、毎日睡眠不足の中、週末に教会に行くクリスチャンのエチオピア人やインド人、インドネシア人の友人達がいた。
10分でも長く寝ていたいのに、せっかくの休みの日に早朝から教会に行くなんて、私には、神に祈る人の気持ちがわからなかった。
この頃から、私には、神に祈る人たちが不思議で仕方なかった。
その信仰心というものを理解することができなかったからだ。
全く同じ生年月日で、私を「ツインシスター」と呼ぶ、エチオピア人のジョテは、こう言ったことがある。
「人生って、一生懸命オールを漕いでいるようで、予め決まった終着点に流されているだけのような気がする」
敬虔なキリスト教徒らしい表現だなと思った。
そうかもしれないと思うと同時に、予め、人生は決まっているならば、努力して変えることができないようにも感じ、嫌だなとも思って印象に残っている。
ガーナに住んでから、ますます神に祈る人たちが身近になり、たくさん遭遇するようになった。
良し悪しではなく、祈るということが、私には、他力本願のように思えて、不思議で理解できない行為だった。
祈るのではなく、何かを改善したいのなら、何かを変えたいのなら、行動して努力すべきだと思っていたからだ。
神に祈る気持ちを理解する
舌がんの手術後、退院して家に戻ると、お風呂で自分の顔を洗うのが怖くなった。
転移するとしたら、首のリンパだから、自分でも気づくから気をつけて観察してねと、医師から念を押されていたからだ。
転移を見つけてしまいそうで、お風呂で自分の顔を洗うのが怖くなったのだ。
日本にモリンガを伝えるために、また起業する。
そう決めて、退院したものの、迷いが生まれ始めた。
新たに融資を受けて起業して、また入院でもすることにでもなったらどうしよう?
こんな状況で、起業するなんて無責任ではないだろうか?
これがこれから完治まで5年も続くなんて。
そうして、どうしようもない恐怖に支配されそうになった時、初めて、神に祈る人の気持ちがわかった。
あぁ、人は、自分の力ではどうしようもない、コントロールできないことに遭遇した時に、人智を超越したもの、神にすがるのだ。
だから、住環境が厳しい地域で暮らす人達は、信仰が支えになっているのだと。
近代化が進んだ先進国で信仰心が廃れ、生活が厳しい新興国で信仰心の強い人たちが多いのは、そういうことなのだ。
ガーナで、毎週末、教会に通い、心の平安を得ていた人たちの気持ちが初めて理解できた。
キリストだかブッダだかわからないけれども、「私は神に守られているから大丈夫」と自分に言い聞かせてみた。
心の中で何度もそう唱え続けると、本当にそう思い込めるようになった。
不安がだんだんと薄れ、落ち着いていった。
大丈夫。
むしろ、残りの時間がどれだけあるかわからないからこそ、生活のためではなく、したいことをしよう、意味のあることをしようと思えるようになったのだ。
明日、どうなるかわからないのは、実は、健康な人だって同じなのだ。
突然、事故に遭うかもしれない。
そんな起きてもいないことを恐れることは、意味のないことだ。
人はみな、誰もが残された時間を生きているのだから。
すると、あの時ジョテが言った言葉がすっと腑に落ちた。
努力が報われないとか、運命が決まっているということではなく、「一生懸命オールを漕いでいると、自分にとって最良の終着点に神が導いてくれる」という意味なのではないだろうか。
「神に守られている」と信じると、一見好ましくない出来事もそれ自体に意味があり、最後には丸く収まると、安心感を持てるようになる。
神に祈る彼らの気持ちを理解できるようになって、私も心の平安が得やすくなった。
「起きることには意味がある」と思えると、より強く楽に生きられるようになるのだ。
雨の日は会社を休もう ~アフリカから学んだ人生で大切なこと~
アフリカの自然生まれのセルフケアブランド「JUJUBODY」を手掛ける大山知春さん。
31歳の時、アフリカ・ガーナで現地法人を設立し、サービス開始しようとした矢先、舌癌を患い日本への帰国を余儀なくされた、大山知春さん。
いつ抜け出せるかわからない闘病生活、起業途中での挫折。
そんな時に心を癒してくれたのが、ガーナで触れた人々の生き方でした。
様々な「思考の呪縛」に取り払い、今この瞬間を生きることで、
とても楽に生きられるようになったといいます。
ポストコロナで、新しい生き方、働き方が注目される今、
日本で生きづらさを感じ悩みながら生きている人におくるエッセイです。