コカイン所持で逮捕された男の暴露によって、19年前の事故を、殺人事件として再捜査することになった。当時人気絶頂のさなか、ホテルの部屋で死体となって発見されたギタリスト鈴村竜之介。時を経てその被疑者に浮上したのは、鈴村と同じバンドの元メンバーで、今はソロとしてブレイク中の木宮保だった。事故死か、殺人か、それとも——? 当時の関係者を回り、執念の捜査を進める二人の刑事たち。音、絆、女、薬……あの日、あの部屋で、何があったのか。やがて狂騒の真実が白日の下にさらされる。
「小説を書いて12年、描きたかった物語がやっと完成しました。これなら読者は楽しんでくれる、そう確信した私の自信作です。」——本城雅人
濃密な人間ドラマと哀切を極める結末。2月10日発売の傑作ミステリ『終わりの歌が聴こえる』から一部を試し読みとしてお届けします。
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3
娘の蒼空(そら)と手を繋いで、日なたになっているバス通りに出た。身長一八〇センチの伴は、娘に合わせて少し前屈みで歩く。こうして娘を保育園まで送ると、父親になったことを実感する。車が近づいてきたのを察して振り返ると間近に迫っていた。EV車のためエンジン音が聞こえなかった。
「危ないよ、蒼空」
手を引っ張って、娘を路側帯に寄せた。蒼空は小走りで伴の太腿の裏に隠れた。車は静かに通り過ぎていく。前後には同じように子供を保育園に送る母親がいた。車道側に子供を歩かせていたのは伴だけだった。
「蒼空、こっちを歩いて」
恥ずかしさを隠して右から左に繋ぐ手を持ち替える。「なにが父親になった実感だ」小声で独りごちて、拳骨で自分の頭を叩いた。
「ねえ、お巡まわりさんっていつがお休みなの」
歩きだしたところで蒼空から言われた。
「ごめんな、蒼空。本当は昨日休みだったんだけど、今週はたまたまお仕事が入ってしまったんだよ。ママ、怒ってたろ?」
英語指導教員として、杉並区内の小学校に勤務している妻の睦美(むつみ)のお腹には、妊娠五カ月目の子供がいる。不満を言われたわけではないが、日曜も仕事が入ったと伝えた時、睦美は一瞬、眉をひそめた。
「ううん、ママはお巡りさんはみんなを守らないといけないから、お休みの日も働かなきゃいけないと言ってたよ」
本来なら父親の仕事は警察官だと外で言わせない方がいいのだが、話したところで四歳の蒼空にはなぜダメなのか意味が分からないだろうとまだ説明していない。
「それに蒼空は、奏くんに毎日送ってもらえるからいいの」
娘は伴のことを「奏くん」と呼ぶ。それは彼女が睦美の連れ子で、初めて会った時、睦美が「奏くんよ」と紹介したからだ。
睦美とは荻窪署勤務だった二年前、彼女が勤める小学校で保護者が教師に暴力を振るった捜査で知り合い、去年の今頃から交際に発展した。当時、睦美は前夫と別居していたが、まだ離婚は成立していなかった。不倫が警察の上層部にバレると問題になるからと、睦美に離婚の手続きを急いでもらい、三カ月前、妊娠が分かったのを機に籍を入れて同居した。
実父とはすでに離れて暮らしていたが、蒼空はそれまで何度か顔を見せていた伴が急に家族の一員として一緒に暮らすようになったことに明らかに戸惑っていた。彼女にとってのパパは永遠に実父であることに変わりはなく、そう簡単に伴のことを「パパ」とは呼べないのだろう。それでもよくできた子で、仕事を終えて帰宅すると、その日起きたことを伴に一所懸命話してくれる。子供と自分のどちらが遠慮気味かと言えば、それは間違いなく伴の方だ。
保育園に到着し、保育士に預けた。
「バイバイ」
蒼空は大きく手を振った。保育士の前では、蒼空はけっして「奏くん」とは呼ばない。
約束の五分前に到着したのに、渡真利はすでに来ていた。思わず「渡真利さんって、沖縄の方ですよね?」と言ってしまった。
慌てて話を変えようとしたが、先に渡真利から「沖縄の人間って時間にルーズだって言いたいんですね。でもそれは事実です。私が変わり者なんです」と言われた。伴は「失礼なことを言ってすみません」と謝罪した。
捜査の相談をされた時、渡真利からは「動くのは週明けからで構いません」と言われたが、一カ月の期限で東京出張に来た彼の時間を無駄にするわけにはいかないと、伴は日曜の昨日も出勤した。
昨日の午前中は雨の中、当時のメアリーを知る関係者を回った。メアリーをマネージメントしていたのは個人事務所で、大手芸能事務所と業務委託契約を結んでいたが、あまり口出しすると鈴村や木宮から文句が出るため、委託先はライブやレコード、グッズ販売等の契約の仲介、管理に徹していたようだ。当時から在籍する社員にメアリーや木宮について聞いても「あまり知りません」とろくな証言は得られなかった。
天気が回復した午後は、三軒茶屋の木宮保の自宅を確認した。一応、鉄筋コンクリート造のようだが、有名ミュージシャンが住んでいるようなデザインの凝った豪邸とは異なる、こぢんまりした二階建てだった。
「木宮保って一人暮らしですよね」
「はい。近所の人に確認したら皆さん、木宮保の家だと知っていました。楽器の騒音はまったくないと言ってましたから、室内は防音になっているんじゃないですかね」
自宅に簡易なレコーディングスタジオを持っているミュージシャンは多いが、木宮の自宅は大きさ的にそこまでの設備はなさそうだ。そこにタクシーが停まって、車から降りた髪の長い女性が玄関へと入っていく。三十代前半くらいに見えた。
「完全な独り者ってわけではなさそうですね」
「人気ミュージシャンの木宮保ですからね。女なんて選び放題でしょ」渡真利はそう言いながらも「木宮って五十五歳ですけど、今の女性、どう見ても二十歳以上は離れてますね」と呆れた顔をしている。
「ミュージシャンは、あれくらいの年の差は普通ですよ。ミック・ジャガーは七十三歳で四十四歳下の女性と子供を作りましたし、ジミー・ペイジは七十一歳で確か二十五歳の女優と交際してましたからね」
有名ミュージシャンを挙げていくが、渡真利はミック・ジャガーは知っていたものの、「ジミー・ペイジというのはレッドツェッペリンのギタリストですよ」と説明しても「はぁ」と言うだけで、通じていなかった。
結局、昨日は一日回って捜査の参考になる情報はさっぱりだったが、話を聞いた一人が、メアリーのレコーディングに参加していたエンジニアを教えてくれた。今日はこれからそのジョニー笹森(ささもり)という男に会う予定である。
麻布の音楽スタジオで笹森を呼び出してもらうと、腹がせり出しただらしない体躯に金髪でピアスをつけた、センスがいいとは到底言えない風貌の男が現れた。これからあまり知られていないアイドルグループのレコーディングをするらしい。
「メアリーなんて名前、何年か振りに聞いたな。なんか蕁麻疹が出そう」
名前を出した途端、スタジオ内のソファーに座る彼は嫌悪感を示した。
「そんなに嫌な記憶ですか」
伴が尋ねる。今回の捜査の主体は沖縄県警で、伴は手伝いに過ぎない。だが警務畑が長く、刑事経験が浅い渡真利は音楽にも詳しくないとあって、「伴さん主導でお願いします」と捜査初日に言われている。
「もうサイテーだったね。人を顎で使うくせにやってることはブレまくりなんだから」
「ブレまくりって音楽の方針がですか?」
八〇年代末から九〇年代にかけて立て続けにヒット曲を出したメアリーは、音楽番組には滅多に出なかったが、CMソングやドラマの主題歌になったり、凝ったミュージックビデオの作りもあって、その作品は広く知れ渡った。
スタジオ録音されたCDにはシンセサイザーやシーケンサーなどの音も入っていたが、ライブはギター二本、ベース、ドラムの生楽器のみで、四人ですべてを演奏していた。そういう意味ではブレていたというよりは、自分たちのスタイルを貫いた印象の方が強い。
そのことを話すと、「ブレるというのはベルと保のことだよ」と笹森は口をすぼめた。
「ベル?」
渡真利が聞き返したが、笹森より先に伴が「鈴村竜之介のことです。ファンの間でもベルさんで通ってました」と説明する。
「ああ、鈴って意味ですね」
渡真利は即座に理解した。それより笹森の話の続きを知りたい。
「二人の仲がよくなかったのは聞いていますけど、実際どれくらい不仲だったのですか」
「もう最悪だよ。この前までベルがいいって言ってたものを、保もいいと言い出すと、ベルが反対する。保も似たようなもんさ。たぶん最後の三、四年は口を利くどころか、目も合わせなかったんじゃないかな」
「お笑い芸人のコンビが一緒に行動しないのと同じですか」
渡真利は真顔で訊いたが、伴にはピント外れに聞こえた。
「全然違うよ。芸人はテレビや舞台では上手くやるけど、ベルと保はステージの上でもそっぽを向いてたから」笹森が鼻先で笑う。
「それでもバンドの音は一つになっていたから、たいしたものでしたけどね」
伴が割って入ったが、「あれは曲がよかっただけさ。他のバンドがやってたらもっといいデキになってたよ」と、よほど嫌いなのか笹森は不快感を露わにする。もっともそのよかったという曲も、鈴村と木宮の合作であるのだが。
「笹森さんはスタッフの一員だったわけでしょ。解散はショックだったんじゃないですか」
昨日のうちに伴は保管しているメアリーのすべてのCDブックレットを確認したが、ジョニー笹森というクレジットはどこにも載っていなかった。
「死んだらしょうがないじゃん。それにラスティングソングを出して以降、新曲を出してなかったわけだし」
「どうして出さなかったんですか。その曲なら私も知ってるのに」
渡真利が口を挿んだ。メアリーファンの伴なら、頭の中で答えが分かり質問をやめてしまうが、無知であるがために渡真利は先入観なしで訊ける。
「あれだけ売れるとなかなか次は出せないものだよ」
予想した通りの答えだった。売れたアーティストなら同じ悩みに陥るだろう。早々とバンドを諦めた自分には羨ましい悩みだ。
その後も笹森はメアリーの悪口を吐き続けた。スタジオに呼ばれてもレコーディングまで発展せずに、交通費すら貰えなかった、鈴村の思いつきでの急な呼び出しが多く、少しでも遅れると、くどくどと文句を言われたなどなど。
「二人の仲が悪かったことと、鈴村さんが死んだことって関係してますか?」
堂々巡りのため、伴は話の腰を折るようにして質問を変えた。
「それ、どういうことよ?」
「たとえば事故死ではなく、バンドがうまくいかないことで思い詰めて死んだとか」
これが殺人事件の捜査だと明かすのはさすがに早急だと、あえて的外れなことを訊く。
「ベルが自殺ってこと? ないない、そんな噂も出たみたいだけど、俺は絶対ありえないと思ったもん」
「事故死だったらありうるんですか」
「まぁね」
「それはなぜ?」
その質問は渡真利がした。
少し悩んでいたが、渡真利の大きな目で見られることに耐えられなくなったのだろう。「クスリやってたから」と声を細くして答えた。
「笹森さんは鈴村さんがコカインを使っていたことを知っていたんですね」
「見たことはないよ」
「見てないのにどうしてそう言えるんですか」
渡真利が追及すると「やけにテンション高い日があったし、仲間内では有名な話だったから……」と語尾を濁す。この男もやっていたのではないかと疑問が湧いた。どれくらいの頻度で鈴村は薬物を使用していたのかも知りたかったが、見たことはないと言い張るのであれば訊いたところで無駄だろう。伴には、笹森がさきほど断言した言葉の方が引っかかった。
「さっき笹森さん、自殺は絶対にありえないと言いましたよね。それはどうしてですか」
「それは……ああ、ベルに新曲ができたからだよ」
少し思案してから意外なことを口にした。
「新曲があったんですか?」
伴は無意識に声が大きくなった。刑事としてというより、ファンの一人としての反応だ。
「確かツブっていうおかしなタイトルだったけど、いい曲だったよ。ベルが作ったデモテープを聴いただけだけど」
「それって木宮さんも聴いてるんですか」
「もちろんさ。メアリーの曲は、作曲はベル、作詞は保が担当だったんだから。あの時、そこから保が詞をつけることになってた」
「もしや事故がなければ、沖縄でその曲のレコーディングをするつもりだったんですか」
「まぁね。東京から他のスタッフも呼ばれてスタジオも借りてたからな。でも沖縄のスタジオの機材はショボかったし、保の詞ができてたわけではないから、本当にレコーディングが実現したかどうかは分かんねえけど」
メアリーに幻の新曲があったとは、表に出ていないすごいニュースを聞かされた気分だった。確かにそんな時に自殺はないと誰もが思う。そう考えたところで笹森が呟いた。
「俺は、警察は殺人事件として捜査してると思ったけどね。警察は俺らスタッフに、薬物検査を受けさせたくらいだから」
伴は隣の渡真利を見た。渡真利は首を左右に振る。そこまでは聞いていないとの意味だろう。
「警察は誰かを疑っていたんですか?」
警察が容疑者を口外するはずがなく、愚問だったと反省した。だが笹森はぞっとするようなことを漏らした。
「俺は保しか考えられないと思ってたけどな」
「どうしてそう思ったんですか」
伴が勢い余って問い質したせいか、笹森は動揺し、急に声に覇気がなくなった。
「だって保はその後ソロになったじゃん。保にはオファーがひっきりなしにあったし、新曲できたらバンド続けないといけないわけだし……」
そんな適当な理由かとガッカリする。
「別にバンドを続けていてもソロ活動はできるし、そんなリスクを背負ってまで、殺さなくてもいいでしょう」
「まっ、そうだよな。じゃあ保はないか」
自分から言い出しておいて、笹森はあっさり意見を取り下げた。
終わりの歌が聴こえる
彼らに残っていたのは、もはや後悔だけだった。
19年前に世間を騒がせた、ある天才ギタリストの「伝説の死」。
その美しい旋律に掻き消された慟哭の真相とは――。