ノンフィクション作家・森功さんが故・齋藤十一に迫った傑作評伝『鬼才 伝説の編集人 齋藤十一』が発売になりました。齋藤十一は「週刊新潮」「フォーカス」等を創刊し、小林秀雄や太宰治、新田次郎、山崎豊子、松本清張ら大作家に畏怖された稀代の天才編集者です。「新潮社の天皇」「出版界の巨人」「昭和の滝田樗陰」などの異名を取りながらも、ベールに包まれてきた齋藤十一の素顔とはー。
二〇一八年の暑い夏の盛りだった。
「すでに意識がなく、かなり危ない状態のようです。ひょっとすると、今日、明日かもしれません」
八月三日、「週刊新潮」編集部副部長の塩見洋から電話をもらい、東京新宿メディカルセンター(旧東京厚生年金病院)に向かった。そこには週刊新潮の四代目編集長だった松田宏が二年程前から体調を崩し、長いこと入院していた。かつての部下に弱った姿を見せたくなかったのだろう。
「何しに来たんだ。誰も来るな、と伝えておけ」
見舞いに行くと、顔をプイッと窓に向け、ベッドの上で背を向けたまま、右手を振って追い返そうとする。そんなこともあった。
松田はこの年の春先、末期の大腸癌と診断されていた。延命措置を断ってケア病棟に移っていたが、それでも見舞いは歓迎しなかった。そうしていよいよ意識が混濁し、最期を迎えようとしているという。
急いで駆け付けると、ベッドに仰向けになり、目を閉じている。本人にはもはや手を振る力は残っていなかった。
「意識を失ってから、はや一週間になります。先生からは『ここまで命をつないでいるのが奇跡です』と言われています」
付き添っている長男の秀彦が病状を説明してくれた。編集長時代、九十キロ近くあった頑丈な身体は、別人のように痩せ、酸素吸入をしながら大きな鼾をかいている。年齢の割に豊かだった自慢のシルバーヘアはすっかり抜け落ち、悟りきった僧侶のようだ。
ベッドの右側に立ち、右手を握ると、ひどく冷たい。そのまま強く握って話しかけた。
「松田さん、わかりますか。森です」
なぜか、鼾がとまった。何秒かそのままでいる。すると驚いたことに、かすかな握力が伝わってきた。松田の瞼が少しずつ開き、唇を動かし始めた。ただし、何を言っているのか、うまく聞き取れない。
とっさに左側に立っている秀彦が松田の口元に耳をあてた。ウン、ウンと頷く。
「だから、安心してよ。今週号の週刊新潮にはそんな記事出てないよ。ほら」
サイドテーブルにあった週刊新潮の最新号を松田の目の前に拾い上げ、目次を見せた。耳を松田の口元に近付け、何を話しているか、通訳してくれた。
「実は、父はずっと週刊新潮のことを気にかけていましてね。このところ『食べてはいけない食品』みたいな特集記事がたくさん載っていたでしょう。『あんな記事を出していたら、雑誌がつぶれるぞ』とずっと文句を言っていまして」
私も秀彦に倣い、松田の口元に耳を近付けると、かすかな声が聞こえた。
「気がかりが二つあるんだよ。一つは週刊だ。頼む」
松田はまさに最期の言葉を喉の奥から絞り出した。かつて週刊新潮の現場で陣頭指揮を執っていた元編集長の青い息だ。
「松田さん、僕はもう新潮社にいないんですよ。だから現役の編集幹部を呼んで怒らなきゃダメですよ。なんなら僕から、松田さんが怒っていたぞ、って伝えときましょうか」
そうやりとりをしていると、不思議なことに、松田の声が次第に大きくなり、ほとんど意識を取り戻した。そして、まるで編集長時代に戻ったかのように、声に力を込めた。
「おい、齋藤さんの本は、いったいどうなったんだ? もうずいぶん経っているぞ」
私が齋藤十一の評伝に取り組むため、初めて松田に話を聞いたのが、一六年六月だった。それから二年もときが経ってしまっている。
生涯雑誌編集者だった松田にとって、究極の目標が齋藤である。もともと文芸編集者として戦後の新潮社を築いた齋藤は、出版社系週刊誌の嚆矢となった週刊新潮を創刊し、雑誌ジャーナリズムの形をつくったといっていい。自らがつくった週刊新潮の六十余年の長い歴史で、一度も編集長に就いたことはない。それでいて歴代編集長はもとより、古手の編集部員はみな齋藤の薫陶を受けてきた。
松田もまた、常に齋藤という出版界の巨人を意識し、敵わぬまでも背中を追い続けてきた編集者の一人である。それだけに齋藤の評伝のことが気がかりだったのだろう。
「いや、すっかり遅れてしまってすみません。頑張ってやります」
私はそう頭を搔く以外になかった。
面会した二日後の八月五日未明、週刊新潮四代目編集長は酷暑のなか、静かに旅立った。
天皇の出社風景
金曜日と月曜日の正午になると、決まってその姿があった。東京・牛込矢来町の新潮社前にシルバーのBMWが横付けされ、運転手の市橋義男が素早く後ろに回って後部ドアを開ける。後部座席から杖が地面に伸び、ソフト帽の老紳士が現れる。右手を口元のパイプに添え、紫煙を吐き出しながら、玄関に向かう緩やかな坂道をゆっくりと進む。運悪く、その場に出くわした新潮社の社員は立ち止まり、深々と頭を垂れて道を開けるしかない。
それが、何度か目撃した齋藤の出社風景であった。
齋藤は新潮社の編集部門を統べ、出版界に君臨してきた。一九五六(昭和三十一)年二月、週刊新潮を創刊して以来、四十年以上ものあいだ、意のままに編集部を動かしてきた人物である。
「御前会議」──。かつて週刊新潮の編集部員がそう呼んだ編集会議がある。そのために齋藤は毎週金曜日に新潮社別館に出社した。茶を飲んで一服した頃合いを見計らい、正午過ぎに常務取締役の野平健一と取締役編集長の山田彦彌が、「二十八号」と書かれている重役室のドアを叩く。二階にある齋藤の部屋だ。
御前会議と諷された編集会議では、次の号に掲載する六つの特集記事のテーマを選ぶ。といっても、議論が交わされるわけではない。常務の野平と編集長の山田が畏まって応接のソファに浅く腰かけ、山田が編集部員の書いた二十枚近い企画案を齋藤の前のテーブルに置くだけだ。すると、齋藤がそれをめくりながら、〇×と印をつけていく。編集会議とは名ばかりで、決めるのは齋藤一人だ。テーマの打ち合わせには、総勢六十人いる編集部員はもとより、特集記事やグラビアを束ねる四人の編集次長でさえ、参加できない。
編集長の山田以下六十人の部員が机を並べる週刊新潮編集部は、二十八号室と同じ新潮社別館の二階に広がる。会議のあと山田が編集部に戻り、部員たちに次号の特集記事やコラム記事のテーマを発表する。大方の記事のラインナップが決まり、そこから本格的な取材活動が始まるのだった。
齋藤の興味あるテーマについて、部員たちが齋藤を満足させるために取材に駆けずり回って記事にしていく。そうして週刊新潮はピーク時百四十四万部、四十年以上にわたって五十万部を発行し続け、週刊誌業界の先頭を走ってきたのである。齋藤はその四十年間、週刊新潮誌面におけるすべての特集記事のタイトルをつけてきた。
「新潮社の天皇」「昭和の滝田樗陰」「出版界の巨人」「伝説の編集者」──。
齋藤には、たいそう仰々しい異称がある。数多くの作家を世に送り出し、戦後の新潮社を形づくってきた。斯界では知らぬ者がいないほど有名な出版人である。半面、常に著作を世に問う作家と違い、編集者はその生涯が詳らかになることが滅多にない。ことに齋藤は、新潮社の社員ともほとんど口を利かなかったからなおさらだ。私自身、新潮社に籍を置いていた頃、すれ違いざまに「こんにちは」と頭を下げた数少ない記憶があるだけである。新潮社内でさえ、謎めいた存在だった。
戦前から新潮社に勤務してきた齋藤はもとをただせば、文芸編集者として新潮社で頭角を現し、身を立てた。太平洋戦争で休刊していた看板雑誌の「新潮」が、終戦の一九四五(昭和二十)年十一月に復刊されると、その三カ月後の四六年二月に編集長兼発行人となる。そこから実に二十年を超える長きにわたり、新潮の編集長を務めてきた。編集長の肩書はそれが最初で最後である。あとはどの編集部にも正式な役職や肩書がない。
齋藤は終戦後間もなく、新潮の編集長に着任し、同時に取締役に就いた。さらに週刊新潮を創刊したあとも、文芸誌の編集長を兼務したまま、経営責任を負う立場にあった。そのため社内の呼び方は、ずっと「齋藤重役」だった。
週刊新潮の初代編集長には、副社長だった佐藤亮一が就任した。亮一は新潮社を創業した佐藤義亮の孫にあたり、戦前、齋藤はその家庭教師を務めている。
そして後ろから亮一を立てて週刊誌を生み出し、編集を指揮してきたのである。ちなみに創刊当時の御前会議は「円卓会議」と呼ばれた。文字どおり丸いテーブルの中心に座るのが齋藤十一であり、編集長の佐藤亮一と次長の野平健一、のちに出版部を率いる新田敞の四人で会議を開いてきた。
週刊新潮で御前会議のメンバーとして加わった野平は終戦の翌年に入社し、新潮に配属されて齋藤の部下となる。齋藤に指名されて太宰治を担当してきた。太宰は新潮で「斜陽」を書いたあと「如是我聞」を連載し、それが遺稿となる。野平は四八年六月十四日、太宰が入水自殺を遂げた東京・三鷹の玉川上水に駆け付けて捜査に加わり、当人の検視にまで立ち会った。その後、齋藤の腹心の週刊新潮の次長として創刊に携わり、佐藤のあとを継いで二代目の編集長となる。
週刊新潮を立ち上げた齋藤は、草創期に五味康祐や柴田錬三郎といった新人の時代小説を起用して大ヒットさせ、雑誌を軌道に乗せる。その傍ら、出版・雑誌ジャーナリズムの礎を築き、やがて週刊誌ブームを巻き起こした。
「誰だって人殺しの顔を見たいだろ」
齋藤は八一年十月、編集幹部にそう命じて写真週刊誌「フォーカス」を創刊したと語り継がれる。二百万の発行部数に到達したフォーカスの成功を見て、講談社の「フライデー」や光文社の「フラッシュ」が続き、文藝春秋の「エンマ」や小学館の「タッチ」も創刊された。齋藤が考案した写真週刊誌は、出版ブームを超え一種の社会現象になる。
むろん手掛けた雑誌は、週刊新潮やフォーカスだけではない。新潮の編集長に就いた四年後の四九年十二月、齋藤は海外の美術評論を載せるための文化・芸術誌を立ち上げた。書籍や各種物品の輸入規制が厳しかった時代に創刊したのが「芸術新潮」である。創刊号に掲載された小林秀雄の「ゴッホの手紙」が、評判を呼んだ。齋藤と小林は生涯通じて深く交わってきた。齋藤は自分自身以上に芸術に通じた小林のいる鎌倉に移り住んだ。いわば鎌倉文化人の一人である。だが、他の鎌倉文士たちとは異なる特異な存在だったといえる。
文学から始まり、音楽や絵画、ジャーナリズムにいたるまで、齋藤はどれもめっぽう詳しい。昭和、平成を通じ、齋藤十一を超える出版人は日本に存在しない。
鬼才 伝説の編集人 齋藤十一の記事をもっと読む
鬼才 伝説の編集人 齋藤十一
「週刊新潮」「フォーカス」等を創刊。雑誌ジャーナリズムの生みの親にして大作家たちに畏怖された新潮社の天皇・齋藤十一。出版界の知られざる巨人を描いた傑作評伝。