猫好きのみなさまお待ちかね! 石黒由紀子さんの『猫は、うれしかったことしか覚えていない』と、山田かおりさんの『猫には嫌なところがまったくない』が、文庫になりました!(やったー! にゃーにゃー!)発売を記念して、勝手に「幻冬舎ねこ文庫」特集をお送りしています。
第2回は猫好き担当編集者による猫偏愛書評(いいぞいいぞ! にゃーにゃー)。猫本を編集する担当者はもちろん猫が好き!
《猫偏愛書評》猫という奇跡
コロナという得体の知れないものとお付き合いし始めてもう1年以上。おかげで自宅作業、リモートワークという新しい働き方も浸透してきました。家にいる時間が増えてくると、否応なしに増えていくのが、愛猫との時間。といっても、猫はひたすら自分のペースでかわらず生活しているだけですが、どうにもこうにも目がいってしまいます。
うちの猫はチンチラシルバーという長毛種。これがもう、体全体毛だらけで、ほわほわふわふわ。まるまって寝ているとどこに何があるやらさっぱりわかりません。寝ている顔はちょっとシュウマイみたいで、食べ過ぎてふくれあがった体は巨大な鏡餅のよう。私の存在を無視してひたすら寝ている猫を見ていると、ついちょっかいを出したくなって声をかけてしまいます。
「オトフ」
うちの猫の名前です。白い猫なのでお豆腐から名づけました。しかし素知らぬ顔の猫。かまってほしくて、違う名前で呼んでみます。
「シュウマイ」
もちろん見向きもしません。悔しいので次は、
「鏡餅」
ぜんぜん無視です。こうなってきたら、名前を呼ぶという体の連想ゲームが始まります。
「おもち、もちさん、もっさん、もふもふさん、白毛、毛だらけ、毛もじゃ、無視さん、むーむー、もーもー、毛玉、たまさん、たまんさ、あのさー、おとふさー、さー、猫玉」
ひたすら猫には無視されていますが、猫を飼ったことがある人なら心当たりありませんでしょうか。長く猫と暮らしていると、その時々のテンションや猫の雰囲気によって呼び名が変わっていくという”あるある”。『猫には嫌なところがまったくない』でも相当なページ数を割いて、その名前の変化を紹介しております。(そして単行本のとき、そのページがとても評判よかったのでした)
《CP歴代の名前》
CP→おちゃっぴい→ピーマン→ピヨマッチ→近藤真彦→としこ→野村義男→よしお→(中略)→康夫→なんとなく→クリスタル→(中略)→松方弘樹→板前→梅宮辰夫→仁義なし→(中略)→マン→おはぎ→黒豆→おもち→まるもち→フワ子→おもち→(中略)→パピヨン→パピコロス→コロス→重み
きっと他人から見たら、「なんなんだそれ」と思われるような極めて個人的な遊び。なんというか、猫との精神的じゃれあいというか、愛の交信というか。よくわからない呼び名を呼びながら愛猫を抱きしめて毛玉の中に顔をうずめてもふもふと呼吸をするときに、じんわりと溢れてくるのは、間違いなく「幸福」なのでした。
この悪ふざけ感、このいちゃつき感、この幸福感。それを山田かおりさんは、本書の文庫化にともない加筆した「あとがき」でこのような言葉で言い表してくれています。
「この本の中の私は相当いちびっていた」
生粋の関西ならではの適確な表現です。私も関西人なのですごくしっくりきました。猫との日々は、人間を相当いちびらせてしまうのです。そして山田さんはこうも続けます。
「あの頃は毎日がピクニックだった」
毎日生活をしていると嫌なことだって悲しいことだってある。毎日暮らしている家族にだって、本気で腹たつこともしばしば。心がささくれ立って嫌な気持ちになって、なんだかなー、と思うことがあったとしても。家に猫が待っていて、猫との無言で無表情だけれどかけがえのない時間があって、ただそれだけで、足が地面から5ミリくらい浮いているような浮かれた、多幸感に満ち満ちている自分がいる。
猫がいる奇跡。猫というどこをどうとっても可愛いしか見つからない生き物がこの世にいるという奇跡。とてもやわらかいのにすんごくジャンプとかする奇跡。そんな猫が自分の人生に現れてくれた奇跡。その猫がいま目の前で生きているという奇跡。この世に猫という生き物がいてくれてよかった。私なんかと一緒に暮らしてくれてよかった。家に帰ったら今すぐ猫を抱きしめたい。アホみたいに溺愛して可愛がって、猫に嫌な顔されたい。
そんな日常のなかにある、あほらしいくらい平凡で愛おしい奇跡の瞬間を記録したこの本を、私は編集したにもかかわらず、読むたびに笑い、そして涙を流して泣いている。
(文:『猫には嫌なところがまったくない』担当編集 宮城晶子)
幻冬舎ねこ文庫?発売記念特集
猫と暮らせば毎日がちょっと幸せになる。
猫と生きれば人生がとっても楽しくなる。
猫すきさんも、そうでない人も。
読んだら心がふわふわ柔らかくなる、幻冬舎ねこ文庫の特集です。