ノンフィクション作家・森功さんが故・齋藤十一に迫った傑作評伝『鬼才 伝説の編集人 齋藤十一』が発売になりました。齋藤十一は「週刊新潮」「フォーカス」等を創刊し、小林秀雄や太宰治、新田次郎、山崎豊子、松本清張ら大作家に畏怖された稀代の天才編集者です。「新潮社の天皇」「出版界の巨人」「昭和の滝田樗陰」などの異名をとりながらも、ベールに包まれてきた齋藤十一の素顔とはー。
東京都内を東西に横切る東京メトロ東西線の中野行き先頭車両に乗り、神楽坂駅の出口から表に出ると、目の前に洒落た木の板の階段が広がる。階段の先には、「la kagu」と書かれた入り口が見える。建築家の隈研吾が設計したラカグ、かつては新潮社の書庫だった。カフェや店舗につくり変えられた建物は、その古くさいスレートの外壁がむしろ新しく感じる。
これも出版不況のなせる業なのだろう。単なる本の倉庫として使うのはもったいない、という発想から、新潮社が計画したと聞く。ラカグは、新潮社が大家となり、バッグやアクセサリーの販売会社「サザビーリーグ」に運営を任せた。グループの銀座の厨房雑貨販売「アコメヤ」がカフェを開き、衣類や家具、生活雑貨を販売、作家のトークショーなどに使うイベントスペースもある。
新潮社の本館はそのラカグ脇の坂をのぼる牛込中央通りに面している。通りの向かい側が、週刊新潮や芸術新潮など雑誌編集部のある別館だ。
山崎豊子は生前、大阪から上京すると、秘書の野上孝子を伴い、真っ先に東京駅から新潮社に向かった。まずは齋藤十一に挨拶をする。それが決まりになっていた。
山崎たちは齋藤のいる別館ではなく、いつも本館を訪ねた。受付のカウンターで来意を告げてエレベータで二階に上がると、応接室に案内される。大きなテーブルとステレオがあるその部屋では、野平や山田、新田、菅原國隆が山崎を出迎えた。週刊新潮の次長だった野平は二代目の編集長に就き、その次の編集長となる山田が山崎の担当者となる。新田は出版担当の取締役となり、菅原は齋藤に代わって新潮の編集を任されていた。いずれも齋藤の下で新潮社の屋台骨となり、会社を支えてきた中枢幹部たちである。
山崎は一九五八(昭和三十三)年、吉本興業創業者の吉本せいをモデルにした「花のれん」で第三十九回直木賞をとり、毎日新聞を退社して本格的に小説家として活動を始める。その決断に手を貸したのが齋藤だった。齋藤は山崎に週刊新潮で「ぼんち」を連載させ、以来、「華麗なる一族」「二つの祖国」といったヒット作を新潮社から出版した。そうして山崎は押しも押されもせぬ国民的な作家となる。
新潮社にとっては大事な作家だけに、幹部がそろって出迎えるのは当然である。応接室に通された山崎は野平たちと簡単な時候の挨拶を交わす。だが、齋藤はそこにはいない。
「やあ、久しぶり」
右手をあげ、そう言いながら遅れて応接室に入ってくる。山崎はまるで待ち焦がれていたかのように、齋藤の姿を見ると、慌てて立ちあがる。
「私は、山崎豊子と申します」
腰を折り、深々と頭を下げてそう挨拶する。むろん二人は初対面であるはずがない。秘書の野上は、あたかも初めて会ったかのように振る舞うその光景が、不思議でたまらなかったという。
「広い応接室で、新潮社の錚々たる方々と山崎先生がいっしょに齋藤さんを待っているんです。そのあいだはみな、緊張して会話もほとんどありません」
こう思い起こす。
「それで、まるで初めてお目にかかったときの挨拶のような『山崎豊子と申します』でしょ。それがとてもおかしく、印象深くて、今でもよく覚えています。でも、先生は新潮社に行くたび、いつもそうやって齋藤さんに挨拶していました。なぜ、あんな挨拶を毎回繰り返していたのか、今でもぜんぜんわかりません」
山崎は齋藤の前に出ると、新潮社の幹部社員たちと同じように緊張していたという。
「野平さんなんかはとても穏やかな方でした。なのに齋藤さんはなぜあんなに偉そうにしているんだろ、と妙な気がしていました。もちろん私などは相手にされませんでしたけど、山崎先生とは言葉を交わしていました。齋藤さんはソファにどっかと座って、パイプを吹かしながら『華麗なる一族はタイトルがいいねぇ』なんておっしゃる。先生は齋藤さんに畏まって『はぁ』『はい』と返事をして頷くだけでした」
鬼才 伝説の編集人 齋藤十一
「週刊新潮」「フォーカス」等を創刊。雑誌ジャーナリズムの生みの親にして大作家たちに畏怖された新潮社の天皇・齋藤十一。出版界の知られざる巨人を描いた傑作評伝。