超長寿国、日本。人生100年時代と言われて久しいですが、その分高齢化も進み、お金・介護・認知症などの問題はより深刻になってきています。現代において子は、介護という地獄を受け入れるほどの恩を親から受けていると言えるのでしょうか。宗教学者で作家の島田裕巳さんによる幻冬舎新書『もう親を捨てるしかない 介護・葬式・遺産は、要らない』より、本音でラクになる生き方「親捨て」について、一部を抜粋してご紹介します。
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結婚する意味、子どもをもつ意義を見つけづらい都会の生活
都会は、いろいろと便利なものがあるので、ひとりで暮らしていても不自由を感じない。これが地方だと、今ならコンビニくらいはあるかもしれないが、ひとり暮らしには不便である。
さらに、最近では、「おひとりさま」を大切な客として尊重しようとする動きもあり、以前よりもはるかにひとりでいることの居心地がよくなっている。
なぜ結婚して、家庭をもうけ、苦労して子どもを育てていかなければならないのか。そうした疑問に対して答えを出すことが難しい世の中になっているのである。
かつてのように、家が経済的な共同体としての性格をもっていた時代には、家を存続させることが至上命令であり、世帯主となる人間が結婚しなかったり、子どもを作らないということは考えられなかった。家がなければ、生活できないわけで、皆家にすがるしかなかった。
たとえば、今でも、歌舞伎役者は結婚することを求められ、結婚すれば、子ども、とくに男児を早く作るように、さまざまな形で圧力がかかる。その家の芸を子どもに受け継がせる必要があるからで、子どもは大切な、その家にとっては不可欠な「戦力」なのである。
子どもの初舞台ともなれば、贔屓がこぞって劇場にかけつけるし、ご祝儀もはずむ。やがてその子が成長すれば、親が出演している舞台で共演する。そして、役者同士が姻戚関係を結び、襲名披露の際には、「親戚のひとりとして襲名の舞台に立てたこと、これほどの喜びはございません」という口上を述べる。
そうした家庭なら、子どもを作ることは是非とも必要なことで、それに疑問を感じたりはしない。疑問の生まれる余地もない。
だが、都会に生まれた核家族は、そうした機能を果たさないわけで、あえてそうした家庭を作る意義を見出せない人間が出てきても不思議ではないのだ。
家庭を作れば、少なくとも、夫婦の相手方の親族との付き合いが生まれ、それは面倒なことであったりする。その割に、結婚に意義を見出せない。今は、そうした社会になっているのである。
サラリーマン家庭で子どもを作ることに意味があるとすれば、それは、子どもを媒介にして地域などにつながりができるということである。とくに幼稚園や保育園、そして小学校に上がれば、親同士の関係も生まれるし、地域とかかわることも多くなる。それは、単身者には難しいことである。
しかし、そうした地域のつながりは、生きていく上で絶対に必要だというわけではない。今は、自分が住んでいる地域にひとりも知り合いがいなくても、生きていくことはできる。格別それで不便はないし、寂しいと感じることもない。地方とはまるで環境が違うのである。
こうなってくると、結婚し、子どもを作ることは、人生における一つの選択肢、オプションになっていく。それを選ぶかどうかは、本人次第なのである。
しかも、雇用が流動化するなかで、非正規雇用という状況におかれれば、なかなか結婚にはむかわなくなる。
あらゆることが、家を作らないという方向にむかっている。私たちは、今や、「家のない社会」へとむかっていることを認識しなければならないのである。
親が教育に金をかけるのは、それぐらいしか子にしてやれることがないから
子どもは、育っていく上で親の恩を受けている。一人前に育つには、親の支えがなければならない。それは、否定できない事実である。
ただ、それがサラリーマン家庭になると、その恩は相当に限定的なものになっている。今の親は子どもの教育ということには力を注ぎ、金もかけるし、手間もかける。たとえば、塾が離れたところにあり、夜遅くなるようだと子どもを迎えに行ったりもする。
教育に力を注ぐのは、他に子どもに対してやれることがないからだとも言える。サラリーマン家庭では、親が子どもに伝えられるものはない。子どもに何か技術を仕込むということもないし、一緒に働きながら、何かを学ばせるということもない。
子どもの就職ともなれば、親はまったく関係がない。以前は、親が知り合いに頼んで子どもの就職先を見つけてやるということが、かなり広く行われていた。それが、就職する人間の人物保証にもなるからである。けれども最近では、そうしたこともあまり見かけなくなった。コネ入社の時代ではなくなったし、そうしたことが嫌われたりもする。
仮に、親が子どもの教育に費やした費用が、子どもが親から受けた恩だとしたら、それはどうやって親に返せばいいのだろうか。もちろん、教育に限らず、育ててもらった恩というものはある。
だが、サラリーマン家庭の場合には、その恩なるものは、かなり軽い。そもそも、教育に多くの金を費やすのは、比較的豊かな家庭であり、そうでない家庭の場合には、義務教育と公立の高校程度で、とくに教育に金を使ったということにはならない。それで巣立ったら、ほとんど親に恩を感じる必要などないはずだ。
今の社会は、親の恩ということ自体が、なくなりつつあると言える。子どもがそれを強く思い、その後の生涯において親に何らかの形で恩を返さなければならないと感じる状況ではなくなっている。
ならば、親の介護が必要になったときでも、子どもが恩返しにと自分を犠牲にしてまで介護にあたらなければならないということは不要なはずではないだろうか。
家と家族が崩壊した時代、子どもに介護を期待することはあり得ない
もう日本は、かつてとは違い、家社会とは言えない。家が社会生活の究極的な単位でさえなくなっている。
家は、ひとりの人間のように、あるとき生まれ、またあるとき、死んでいくものである。人生に、幼少期や青年期、そして壮年期や老年期があるように、現代の日本の家にも、そうした時期の変化がある。それをひととおり経験したとき、家も死ぬのだ。
家がそれだけ脆いものであるということは、その家に住んでいる、あるいは住んでいた親子の関係も脆いということを意味する。兄弟姉妹の関係になれば、もっと脆い。
家や家族の関係が脆いものである以上、人はひとりで生きていき、ひとりで死んでいくしかない。子どもに介護を期待すること自体が、そうした状況からすれば、あり得ないことである。子どもはそんな義務を果たす必要はないし、親はそれを期待できないと覚悟すべきである。
追い込まれてから親を捨てるということは、実際には大変なことだし、心理的にも負担になる。必要なのは、そうした事態を生まないことであり、それ以前にしっかりと親離れ、子離れをしておくことなのである。
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