いま私たちに本当に必要な勉強とは? この問いに、もっとも明快に答えてくれる人物のひとりが、60歳にして戦後初の独立系生保を開業した起業家で、ビジネス界きっての読書家でもある、ライフネット生命保険創業者の出口治明さんです。その出口さんの代表的ベストセラー、『人生を面白くする本物の教養』から、読みどころをご紹介する「出口塾」を開講します!
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「答え」ばかり欲しがるな
「自分の頭で考える」際には、「腑に落ちる」という感覚が一つのバロメーターになります。本当に自分でよく考えて納得できたとき、私たちは「腑に落ちる」という感覚を抱きます。この感覚は大変重要です。
ところが、「腑に落ちる」ことも、また少々軽視されているところがあります。たとえば、何か分からないテーマや事柄があったとして、それについて誰かが説明していたら、その説明を聞いただけで、もう分かったつもりになっている、といったことはないでしょうか。
とくに最近は安直に「答え」をほしがる傾向があり、それに応じてきれいに整えられた「答え」や、一見「答え」のように見える情報が、ネット空間などにはあふれています。ランキング情報やベストセラー情報などは、その最たる例です。あるいは情報がコンパクトにまとめられたテレビ番組もたくさんあります。多くの人が、まるでコンビニへ買い物にでも行くかのように「答え」の情報に群がり、分かった気になっています。
誰かの話をちょっと聞いただけで「分かった」と思うのは安易な解決法です。立派そうな人の本を読んで「なるほど、その通りだな」と思い、翌日に反対の意見を持つ人の本を読んで「もっともだな」と思ったのでは、意味がありません。自分の頭で考えて、本当に「そうだ、その通りだ」と腹の底から思えるかどうか(腹落ちするかどうか)が大切なのです。
私自身は、人の話を聞いてすぐに「分かった」と思うことはほとんどありません。心の底から「分かった」と思えない間は、「そういう考え方もあるのだな」という状態で保留扱いにしておきます。否定もしません。結論を急いで「分かった」と思おうとするのは間違いのもとです。「腑に落ちる」まで自分の頭で考え抜いているかどうか、私たちはもう少し慎重になったほうがいいと思います。
腑に落ちるまで考える
整えられた「答え」ですませてしまうのは、そのほうが楽だからです。しかし、それは手抜きというものです。世の中のたいていの物事には、じつはすっきりした「答え」がありません。それが人生というものです。
すっきりしているのは、多くの情報が削ぎ落とされ、形が整えられているからです。しかし多くの場合、削ぎ落とされた部分がキモだったり、形を整える際に、(道理ではなく)無理が入り込んでしまっていたりします。
すっきりしない情報をあちらこちらから収集し、自分の頭のなかで検証し、本当に納得することが、「自分の頭で考える」ということです。物事を見誤らないための、とても重要な作業です。私は、多少へそ曲がり的な性格ということもあって、子どものころからずっとその姿勢を貫いてきました。
「何となく腑に落ちないな」という感覚が少しでもあれば、安易な妥協はせずに探究を続けることが大切です。別の見方を考えてみる、さらに情報を探してみるなど、いまでは情報を探る方法はたくさんあります。探究を続けるうちに、あるところで、本当に「腑に落ちる」という感覚が得られるはずです。それが納得できたということです。
人間が意欲的、主体的に行動するためには、「腑に落ちている」ことが必須です。
講演会で若い人たちに、「もし、あなたの大好きなボーイフレンド、ガールフレンドについて、親が交際に反対したらどうしますか?」と質問すると、ほぼ全員が「親の言うことは聞かない」と答えます。どうして親の反対を無視できるかと言えば、「この人がいい」とはっきり分かっているからです。しっかり腑に落ちているからこそ、親の反対があったとしても交際を続けるという行動がとれます。
腑に落ちていることが、行動力やバイタリティの源泉になります。つまり、本気を呼び起こすのです。