世間では『鬼滅の刃』という映画が流行っている。
興行収入はまもなく400億円を突破するらしい。
知人から公開二日目に勧められてわたしもこの作品の劇場版を映画館で観たが、この作品がヒットしている映画界の現場に、強烈な違和感が拭えない。
自動販売機や駄菓子のおまけなど、あからさまなマーケティング戦略が見え透けてくるのは苦境に喘ぐ大手映画会社による必死の生き残りの術なのだと虚しさを覚えつつも理解はできるが、わたしがどうしても理解ができなかったのがその内容とタイトルである。
物語の詳述はここでは避けるが、映画の内容はわかりやすい勧善懲悪の物語だ。
それは鬼を滅するというタイトルの他、主人公である炭治郎が、人間たちを襲う鬼たちを倒すべく入隊する舞台の名前が「鬼殺隊」であったりと、極めて単純化されたネーミングセンスだけでなく、延々と続く鬼との戦いのシーンにも現れている。
わたしが劇場に足を運んだ10月中旬の公開当初は、ちょうど2017年に神奈川の座間市で発生した<座間9人殺害事件>の裁判員裁判が進行していたタイミングだった。連日、猟奇的な事件を起こした犯人の白石被告の様子などに報道で触れていたためだろうか、この映画に続出する首切りシーンから、白石被告が行った残虐な顛末がわたしの脳裏にフラッシュバックされ、また、映画それ自体にも『鬼滅の刃』というタイトル以上の価値観の更新その他をまったく感じることができず、至極、辛い鑑賞体験となった。
罪を犯した人物を、<鬼>として「死刑」などの法律で<対峙>してしまうことは確かに、被害者のやり場のない心にわずかながらも「救い」をもたらし得るという意味でも効果的であると、主張する人もいるだろう。だが、わたしからして見ればそうした方法は対処療法的であり、長い目で社会を見渡した時に、同様の悲劇は繰り返されるのではないか? という危惧がある。
「鬼」を生み出しているのは、わたしたちが受け入れているこの社会のシステムであるかもしれないのだから。だからこそ鬼を滅したり、殺したりする過程を、わたしは手に汗かきながら応援したりなどはできない。「鬼」はこのシステムを受け入れている自分の中に、息を潜めて、潜んでいると思うから。
こうした違和感が拭えないまま、もどかしい日々を過ごしていた、昨年大晦日のある日、驚くべきフレーズとの出会いがあった。
「福は内。鬼も内」
この年末年始をある事情から奈良県吉野町で過ごしていたのだが、その際に、この町で例年、節分に合わせて<鬼火の祭典>なる行事が開催されていることを知った。各地で「鬼は外!」と追い出された鬼たちを一堂に吉野町の金峯山寺に集わせて、調伏させたのち、改心させる、千年以上も続く行事なのだという。
本来は金峯山寺で行われてきたこの<鬼火の祭典>の時期に、吉野町の観光協会が合流する形で、近年では「鬼フェス」という地域振興行事も行われているらしい。
ボクは「鬼も内」という言葉を支える<鬼火の祭典>の哲学に興味を持った。
折しも、映画のポストプロダクションと重なり、<鬼火の祭典>当日は現地へ足を運ぶことができないが、数十年にわたりこの<鬼火の祭典>を支えてこられた金峯山寺の五條良知 管長にお話を伺うことができた。
「鬼は内、というキャッチフレーズ、これを支える鬼火の祭典の哲学はどのようなところから来ているんでしょうか……?」
「節分の時期には、全国に追い出されて行き場を失った鬼がいるわけでしょう。その鬼はどこへ行くのか?
全国を追い出された鬼神の皆さんにこの寺に集結していただいて、節分の調伏式で良い鬼に変わってもらう。そして我々とその後も共存していただく。そういった考えのもとにこの行事はもう千年以上も続いています」
「鬼というある種の異物ですよね。その異物を包括していこうというその考え方に、強く賛同します。起源や由来というのはわかっているんですか?」
「この金峯山寺の開祖である役行者が法力で鬼を呪縛し、仏法を説いて会心させ、弟子にした故事に基づくという説が有力です」
「なるほど。具体的にはどんな流れで鬼を改心させてゆくんですか?」
「まず節分会になると、蔵王堂で節分の法要が行われます。 法要が終わると、鬼火の祭典と呼ばれ る鬼の調伏式が行われます。この調伏式で、他の寺社と違い、<福は内、鬼も内>と唱えるわけですね。これは先ほども申し上げましたとおり、全国から追われてきた鬼を迎え入れるためです。 そして経典の功徳や法力によって、また信徒らが撒く豆によって、荒れ狂う鬼たちを仏道に入らしめて終わります。いわゆる、転禍為福ですね」
「鬼を殺して退治する、そういった勧善懲悪の物語が今の社会に蔓延しているようで、そういった単純な物語の蔓延する社会にボクは危機感を覚えているんです。五條さんはその辺りどう思われますか?」
五條管長は静かに口を開いた。
「……鬼はそこにいますからね」
「えっ」
「心の中の鬼。人の中の鬼。見えない鬼。厄難とかの鬼も。善人の内面にも鬼的な部分はありますし……」
偏在する”鬼性”。
ボクは夢中になって五條さんのお話に耳を傾け続けた。
「たとえば西洋のキリスト教の考えでは鬼はあくまでも”悪魔”の仲間という考えです。しかし私たちはそういう考え方はしません。鬼は鬼神と呼ばれていたことからも、神様の一種なんですよ。アマビエは妖怪の側かもしれないけれど、鬼は妖怪ではなく神。だから、そういう存在を首を切って滅ぼしてしまうわけにはいかないわけですよ。見えないもの、強いものを排除せず神として共存しようということで、長い間、節分会を続けてきました」
鬼滅という言葉への違和感。
爆発的ヒットをマスメディアが演出するその影で、そのブームに加担できない違和感。
その感覚が、けして自分だけのものではなかったということに、ボクは安堵を覚えた。
でも……と、ボクは疑問を抱いた。
今年、間も無くやってくる節分会、そして<鬼火の祭典>はコロナが依然として猛威をふるい、首都圏を中心に二度目の緊急事態宣言も発令されている今、無事に実施ができるのだろうか?
この一年、旅を続ける中でこの連載でも随所に書き残してきたが、大鹿村、新野、熊川宿・敦賀・南信濃など、各地で中止・大幅縮小になっている伝統芸能・盆行事を目の当たりにしてきた。千年以上も続く伝統の行事をどのように継承し、そしてどのようにこのコロナ禍と、五條管長は向き合っておられるのだろうか。
「歴史を遡ってみますとね、やはり折々のタイミングで、疫病というものは流行っているわけですよね。
そういった疫病を経て、人間は学び、実践していくわけです。たとえば、崇神天皇の時代にはもう、”手を洗ってうがいをせえ”と古事記に書かれていて、疫病にかからないためにも身を清潔にすることを推奨されていたと記憶しています。お寺やお参りの時だけではなく、家の前には「手水」(ちょうず)という手を洗うところがあったり、トイレでは履き物を履き替えたり、家の中では靴を脱ぐとか、そうした感染対策にも通じる生活上のシステムがあった。それでも疫病は折々に流行るわけです。それで時に人がバタバタと死んでいく。
まもなくやってくる節分会というものはですね、千年以上続いてきた行事であるわけですが、その継承の過程には、私たち自身がまず身をきれいにしましょうという人々の願い、そして疫病がこれ以上流行らないで欲しいという祈りもあったのだと思うのですよ」
「なるほど」
「実はですね……節分会で読み上げるお経の中に<年内の流行病の神々も>というくだりがあるんです。
それはつまり、疫病の神様たちにどうか供養を受けて心安らかにして、わたしたちにあまり害を与えないでくださいね、と。だからこそ、今年は、豆を本来は撒いて鬼を調伏させるわけですけれども、今年に限ってはそれを手渡しに変えたり、そうしたマイナーチェンジはありますけれども、予定通り、鬼火の祭典は執り行なう予定ですよ」
コロナが落ち着き、再び来年も続いていくであろう<鬼火の祭典>の際に、山深い吉野へ戻ることができることを願いながら……ボクは五條管長に御礼を申し上げ、吉野の里を後にした。
<写真提供>
金峯山寺
(一社)吉野ビジターズビューロー
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