映画「ぼくが生きてる、ふたつの世界」が9月20日から全国ロードショーになります。監督・呉美保さん、主演・吉沢亮さん、脚本・港岳彦さんのタッグとなる本作は、作家でありエッセイストである五十嵐大さんの自伝的エッセイ『ぼくが生きてる、ふたつの世界』が原作。映画公開に向けて、本書から試し読みを再掲します。ろうの両親の元に生まれた「聴こえる子ども」だった幼少期から振り返ります。
* * *
ぼくは宮城県にある海辺の町で生まれ育った。自宅の二階にある窓から身を乗り出せば、目と鼻の先に港が見える。潮の匂いが風に乗って届くと、鼻先がくすぐったくなる。
東京と比べると、買い物できる場所も遊びに行くスポットも少ないし、港とは反対方向に足を延ばせば田んぼや畑が広がっている。正真正銘の田舎だ。でも、空気が澄んでいて、時間の流れがゆっくり感じられるその町が好きだった。
ぼくは四人の家族と暮らしていた。彼らは一般的にいう“ふつう”とは少しだけ異なる部分を持っていた。祖父は元ヤクザで、気性の荒い乱暴者。酒に酔うと些さ細さいなことで怒り狂い、家のなかで暴れまわる。暴言を吐くことは珍しくなかったし、物を投げつけたり、暴力を振るったりすることもあった。
祖母はとある宗教の熱心な信者だった。「神さまにお祈りすれば幸せになれる」が口癖で、ぼくにも信仰を強制した。それは近所でも有名で、なかにはそんな祖母を敬遠する人もいた。
そして、両親は耳が聴こえなかった。いわゆる“聴覚障害者”だ。
それでも、幼い頃のぼくにとっては、ちょっと変わっている祖父や祖母を含め、聴覚障害者である両親との暮らしは“ふつう”のことだった。
「手話に頼っていては、これから先、きっと苦労するから」という考えを持っていた祖父母の方針もあり、家庭内ではあまり手話が尊重されていなかった。母は必死で口こう話わを身につけ、唇の動きを読み、話しかけてくれる。でも、彼女にとっての第一言語は手話であることを理解していたぼくは、日常生活のなかで少しずつ手話を習得していった。たどたどしい手話で「ご飯が美味しい」「お母さんのこと、大好き」と伝えると、母はいつもうれしそうに笑ってくれた。
小学生になり、ひらがなを覚える頃には、母と“秘密の手紙交換”をするようになっていた。“秘密の”とはいえ、その内容はとても些細なものだ。
〈あしたは、カレーがたべたいです〉
〈カレーはとりにく、ぶたにく、どっち? 〉
〈せんせいが、おかあさんびじんっていってた〉
〈ありがとう〉
なにか伝えたいことがあると、手紙にしたため、それを郵便受けに入れておく。すると大抵、翌日には返事が届く。その遊びがとても楽しくて、しょっちゅう母に手紙を書いた。
その頃は、母と一緒に外を歩くのも好きだった。なにかしらの用事があり外出するとき、母は必ずぼくに知らせてくれた。
幼いぼくにもわかるように、ゆっくり大きく手を動かす。
──いまからスーパーに行ってくるね。
──ぼくも一緒に行く!
外出するときは必ず手をつないだ。母はきっと幼いぼくのことが心配だったのだろう。けれど、ぼくもまた、母のことが少し心配だったのだ。
たとえば、背後から近づいてくる自動車のエンジン音が、母の耳には届かない。そんなとき、そっと母の手を引っ張って知らせる。自動車に気づいた母はぼくを見つめ、「ありがとう」と微笑(ほほえ)んだ。
母のことを守らなければいけない。それは誰に言われたわけでもなく、物心つく頃には胸中に自然と芽生えていた想いだった。中途失聴者である父以上に、生まれながらにして音を知らない母にはより生きづらさがあるように感じていた。
聴こえることを前提とした社会のなかで、聴こえない母は生きていかなければならない。だとすれば、聴こえるぼくが彼女の“耳”の代わりになるのは当然だと思っていたのだ。それは義務感などではなく、彼女のことがただ大好きだったから。大好きな母が困らないよう、ぼくは幼いながらもまるで彼女を守るヒーローのように振る舞っていたのだと思う。
でも、母は決して弱音を吐かない人だった。いつだって笑顔を絶やさないとてもひょうきんな人で、どんなときもぼくを笑わせ、楽しませようと一生懸命だった。一番得意だったのは、お笑いタレントのモノマネだ。
当時のテレビには字幕機能が搭載されていなかったため、母がテレビ番組の内容やタレントの発言を正確に理解することは難しい。それでも彼女は、一人ひとりの身振り手振りをコピーして見せてくれた。それはびっくりするくらい似ていて、ぼくはいつもお腹を抱えて笑った。耳が聴こえないことを補うように“見る”ことに長けていたのだと思う。第三者のちょっとした仕草に敏感で、一度見たものをすぐに覚えてしまう。それをモノマネという形で表現して、楽しませてくれていた。
ときには祖母のモノマネをすることもあった。少しおっちょこちょいなところのある祖母は、よく物を失くす人だった。眉尻を下げ、「困った、どうしよう」と呟つぶやきながらカバンをひっくり返したり、引き出しのなかを漁あさったりする祖母の姿はちょっと間抜けだ。母はその様子も完コピしては、こっそり見せてくれた。
──今日は、回覧板をどこかにやっちゃったんだって。
そう言いながら困り顔を作る母がとても面白かった。ぼくが声をあげて笑う姿を見ると、母はうれしそうな表情を浮かべ、ますますふざける。
いま思えば、その光景はとても幸せなものだったと思う。ぼくと母との間には、いつも温かな陽だまりのような空気が流れていた。
その頃はまだ、母の耳が聴こえないことなんて「なんの問題もない」と思っていた。
ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと
耳の聴こえない親に育てられた子ども=CODAの著者が描く、ある母子の格闘の記録。
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