ノンフィクション作家・森功さんが故・齋藤十一に迫った傑作評伝『鬼才 伝説の編集人 齋藤十一』が発売になりました。齋藤十一は「週刊新潮」「フォーカス」等を創刊し、小林秀雄や太宰治、新田次郎、山崎豊子、松本清張ら大作家に畏怖された稀代の天才編集者です。「新潮社の天皇」「出版界の巨人」「昭和の滝田樗陰」などの異名をとりながらも、ベールに包まれてきた齋藤十一の素顔とはー。
戦後間もなく新潮の編集長に就任するにあたり、齋藤本人に大きな影響を与えた人物がいる。小林秀雄である。一九七〇年四月に入社した池田雅延は、新潮社における小林担当として出版界で知られた編集者だ。
「幸い入社二年目の七一年八月から、出版部で小林先生の担当を仰せつかりましてね。前任者が亡くなったため、大学の卒論で小林先生をテーマにさせていただいていたので、使い走りにはちょうどいいだろう、という程度のワンポイントリリーフのような扱いだったと思います。のちに新潮の編集長となる坂本忠雄先輩に連れていかれ、鎌倉の山の上にある小林先生のお宅にお邪魔しました。それで、小林先生が『こいつは使える』と齋藤さんにおっしゃっていただいたようで、齋藤さんも私のことを知り、私が担当になれたみたいです」
同じ会社の重役と編集部員という関係にありながら、作家を通じて齋藤を知ったというのも妙に感じるだろう。だが、若い池田にとって齋藤はそれほど遠い存在であり、多くの新潮社の社員が似たような接し方をしてきた。
齋藤は戦前、高円寺に家を構えたが、終戦からしばらく経つと佐藤義亮のいる練馬区大泉町に越し、さらに鎌倉に移り住んだ。それは小林が鎌倉に住んでいたからにほかならない。池田は夫人の美和からもしばしば齋藤の話を聞いている。
「どこに書かれているわけじゃなく、小林先生や美和夫人からお話をうかがい、私が調べた限りにおいてのことですけれど、早稲田の理工学部の齋藤さんが文学の手ほどきを受けた同級生で親友の白井重誠さんは、のちに新潮社に入りました。齋藤さんが新潮社に引っ張ってきて、戦後、創刊した芸術新潮の顧問として新潮社に籍を置いておられました。私もよく白井さんをお見かけしました。小柄で白髪、端整な顔立ちをされていて寡黙な印象でした」
看板雑誌新潮の編集長に抜擢された頃の齋藤の様子について、池田は次のように話した。
「ここからは夫人である美和さんの話ですけど、新潮の編集長を命じられた齋藤さんは、ずいぶん当惑したそうです。あれほどの才人ですから、それまでも新潮社の編集者として人並み以上の仕事をやってきた。でも、伝統ある新潮の中村武羅夫という歴史的な大編集者のあとを受け、編集長を命ぜられるのは、それまでとはわけが違う。それは大変なプレッシャーがあったようです。どうしたものか、と思案し、震え上がったらしい。そこで思いついたのが、小林秀雄の存在でした。齋藤さんは小林先生に頼ろうとしたんです」
小林秀雄は一九〇二(明治三十五)年四月十一日、東京市神田区(現・東京都千代田区)猿楽町に生まれた。父親の豊造はベルギーのアントワープでダイヤモンド加工研磨の技術を学び、日本で最初の蓄音機用のルビー針を開発した技術者として音楽界に名を残している。実父の影響を受け、当人は音楽や芸術に関心を抱くようになる。
小林は文学や美術の評論はもとより、出版人としての功績も際立っている。東京帝大文学部仏蘭西文学科の同級生に今日出海や中島健蔵、三好達治らがおり、志賀直哉に師事して文学評論や出版、作家活動を始めた。一九三三(昭和八)年十月、宇野浩二、武田麟太郎、林房雄、川端康成らとともに文化公論社で「文學界」を創刊して編集長に就く。そこで「ドストエフスキイの生活」などの連載企画をヒットさせた。一九五一年の日本芸術院賞をはじめ、数多くの文芸賞を受けている日本の大家の一人だ。池田は新潮社入社二年目からずっと小林の担当編集者を務めてきただけに、さすがに詳しい。
「たとえば昭和十一年頃、小林先生は(仏思想家)アランの『精神と情熱に関する八十一章』を翻訳し、創元社から出版しました。創元社は現在、ミステリー出版の東京創元社に分かれていますけど、昭和十年代は岩波書店のような教養分野を得意とする出版社だったんです。といっても教養学術ガチガチではなく、それを大衆的にかみ砕いて提供するような出版社として、存在していました。アランの翻訳がきっかけとなり、小林先生はそこの小林茂社長に招かれ、顧問として迎えられました。そうして創元選書を企画し、名作を連発するんです。柳田國男を発掘し、今日のビッグネームにしたのが、編集者小林秀雄の業績です」
小林は干支でいうところの齋藤のひとまわり上だ。出版界における小林の業績は、自らの評論や著作にとどまらない。すでに戦前から数々の文豪たちを世に送り出すなど、まるでのちの齋藤十一を彷彿させるような名編集者ぶりを発揮してきたといえる。
もっとも、戦前、戦中の小林は新潮社との縁が薄く、お抱え文士というわけではなかったようだ。
「戦前、新潮にも書いてはいるんですけど、小林先生の年譜を見ますと、五~六編しかありません。大きな仕事は何もしてない。文学者の思い出とか、追悼とか、その手のものを書いている程度でした。いわゆる小林秀雄の世界を形づくった若き日の重要な論文を発表してきたわけではありませんので、新潮社とはさほどの付き合いがなかったのです」
先の池田はこう話した。
「だから齋藤さんに戦前の付き合いがあったとしても、原稿をもらおうと門前払いを食らったか、その程度の付き合いだったに違いないんです。しかし、出版人としての小林先生の手腕は鳴り響いていたから、耳に入ります。それで、新潮社とほとんど縁がなかったにもかかわらず、齋藤さんは伝統雑誌の新潮を預かるにあたり、いちばんに頼るべきはこの人だと思ったというのです。それも齋藤さんの天才的な直感がなせるところでしょう」
鬼才 伝説の編集人 齋藤十一
「週刊新潮」「フォーカス」等を創刊。雑誌ジャーナリズムの生みの親にして大作家たちに畏怖された新潮社の天皇・齋藤十一。出版界の知られざる巨人を描いた傑作評伝。