風俗嬢やAV女優を長く取材してきたノンフィクションライターの中村淳彦さんが貧困問題にたどりついたのはいわば必然のことでした。そして、貧困をめぐる取材を進めると必ずぶつかるのが「新自由主義(ネオリベラリズム)」の問題だったそうです。しかし、「ネオリベラリズム」という単語を聞いたことがあっても、その内実を知る人は多くないかもしれません。中村さんと政治学者の藤井達夫さんが「日本におけるネオリベラリズムの実状」を解き明かす『日本が壊れる前に 「貧困」の現場から見えるネオリベの構造』(亜紀書房、2020)。その冒頭を抜粋してお届けします。
新自由主義(ネオリベラリズム)の正体を解き明かしたい
中村 僕は貧困や性、風俗産業を取材するノンフィクションライターで、藤井先生は大学で教鞭をとって研究する政治学者です。まさに異色の組み合わせとなりました。
藤井 僕の専門は、現代の政治理論と政治思想なのですが、その一方で、若い頃、ミシェル・フーコーという思想家に大いに影響を受けて以来、社会と政治との関係にずっと関心を持ってきました。法律や政治制度では捉えきれない、権力や統治の問題への関心といえると思います。この関心から、中村さんの著作にも注目してきました。
中村 基本的にアカデミックとエンターテインメントは相性が悪い。学者とエンタメライターの共同作業みたいなことは歴史的にもほとんどないでしょう。貧困が絡んでくると、さらに分断は深刻で、我々エンタメ側は気にしてないけど、一部のアカデミックの人たちは僕や我々エンタメが貧困問題を扱うと、「貧困ポルノ」と批判したり、悪口を言ったりする。貧困を面白がるから「けしからん!」みたいな。
藤井 平成時代の日本は、一部の国民を除けば、ほとんどの人たちが貧しくなりました。あまりに貧困化が深刻なので、縄張り争いのようなことをしている状況ではないと思うのですが。確かに、客観的な数値や統計などを用いた学術的な調査はもちろん重要ですよ。
ただ、中村さんの本のように、当事者の言葉に耳を傾け、その語りをとおして現代の貧困の一側面というか、極限的な状況をあぶり出すやり方も、同様に価値があります。それだけではなくて、この社会が「貧困」について「誰が、どのように」語るのか、「いかなる」語り方が「どれほど」存在するのかという、言説の多様さというか、この時代の貧困をめぐる「言説群」へのまなざしも、後世の人たちが、二〇二〇年代の「貧困問題」を理解する上で、重要なのではないでしょうか。つまり、中村さんたちに対するアカデミズムの悪口や縄張り争いも、僕自身は実にくだらないと思っていますが、後の時代からこの時代を特徴づける貴重な資料となるわけです。
中村 「貧困」が社会問題になったことで、アカデミックな人たちや意識高い人たちが貧困問題に関心を持つようになった。いろいろな学者が調査や聞き取りをしているけど、やっぱり「貧困」や「性」の問題はエンタメに情報が集まってしまう。理由は当事者と階層が近いから。貧困問題は、長年の情報の蓄積がある低階層のエンタメのほうが、学者や大手マスコミ、意識高い人たちより強い分野でしょうね。
藤井 あと、コネクションの違いは大きいと思いますね。「貧困」の形態も多様化していて、研究者がアプローチしやすいケースと、中村さんのような方しかアプローチできないケースがあるんじゃないでしょうか。
中村 貧困問題を取材する僕が必ずぶちあたるのが、「新自由主義」あるいは「ネオリベラリズム」(以下「ネオリベ」)と呼ばれるものです。「ネオリベ」はいまの日本の最重要ワードで、国民全員の人生や生活に深くかかわってくる。そして、政治学者と共通するキーワードだと思うんです。政治の問題ですね。
藤井 ネオリベは政治の問題です。しかし、それだけではありません。一般には経済の問題と論じられることも多いですし、文化や社会にかかわる問題でもあるんです。
中村 ネオリベからイメージするのは規制緩和、緊縮、グローバリズム、市場主義、経済合理性、競争、自己責任などなど。そこから派生するのは労働の非正規化、低賃金、デフレ、ブラック労働とか。もう本当にいいことがなにもない。ネオリベは誰もに深くかかわるすごく重要なことなのに、僕を含めて多くの人びとはその正体をよく知らない。生きるため、不幸にならないために「新自由主義」、「ネオリベ」をもっと知る必要がありますね。
藤井 多くの人たちが、ネオリベの正体を知らないというのは、しかたないことかな、と思ったりもします。というのは、実は、このネオリベは、学者の中でもさまざまな説明があって、ネオリベの共通の定義があるわけではないからです。それに、オーストリア出身の経済学者ハイエクを中心とする、リベラリズム色の強い初期ネオリベと、八〇年代以降、政策として通俗化していくネオリベとを一緒くたにして語るのもまず無理ですし。
中村 なるほど、そうなんですね。だから、ネオリベという言葉を聞いたことがあっても、その内実について知らない人が多くても致し方ないというわけですか。
藤井 ここで、ネオリベ、すなわち「ネオリベラリズム(新自由主義)」について、八〇年代以降の通俗化したバージョンを念頭に、ごくごく簡単に説明しておきましょう。学校の先生っぽいと、よくまわりからは揶揄されるのですが、ちょっとだけ時間をください(笑)。ネオリベは二つの視点から説明する必要があります。
一つは名前のごとく、ネオなリベラリズム、つまり、自由主義の新しいバージョンだということです。だから、自由を大切にします。では、ネオリベが大切にしたいと思っている自由が何かといえば、それは選択の自由なんですね。じゃあ、この自由を実際にどう実現するかという問題が出てきます。ここで、ネオリベは、制度や統治の問題になってきます。
中村 ネオリベといえば、市場での競争とか、規制緩和とか、小さな政府化といった言葉を耳にしますが、それは、選択の自由にかかわるのですね。
藤井 競争をとおして選択の自由が行使される主要な場は、市場です。だから、ネオリベにとってもっとも大切な場所というか制度は市場になるわけです。市場において、自分の欲するものを競争に打ち勝つことで、手に入れる。こうして自由が実現されるわけですね。
ネオリベの根源には、あらゆる人間の活動を市場化するという倒錯した欲望があるように思えます。労働も教育も医療も、文化事業も、水道や下水、道路などの社会インフラもすべて市場化することで、競争と選択を行使する場にしようとします。
中村 そうはいっても、かなり無茶ですよね、すべてを市場化するなんて。そんなことできるはずがないように思えますが。
藤井 もちろん、それを実行するのは簡単ではありません。市場化をとおしての選択の自由の最大化を妨げるものがあります。たとえば、その一つが、政府であり、政府が課す規制です。市場は、昔の経済学者が考えたように、「レッセフェール(なすに任せよ)」を掛け声に、そのまま放置しても機能しません。それは必ずクラッシュを起こし、市場に依存する人びとの生活はめちゃくちゃになってしまいます。
だから、政府は市場に規制をかけ、しっかり管理監督することで、クラッシュを防ぎ、市場を機能させると同時に人びとの生活の安全を守ろうとしてきました。あるいは、本来市場化に向かないもの、競争と選択に向かないものを無理に市場化することは危険です。たとえば、水道や空気を市場化してしまうと、それらはすべて人が生きていくために必要であるにもかからず、競争に負けて手に入れることができない人が出てきてしまいます。そうした人たちの生活=生命は、それによって破綻してしまうことは目に見えています。こうした市場化すべきではないものを規制によって守るのも政府の役目でした。
中村 それって、昭和の時代の福祉国家じゃないですか?
藤井 規制によって人びとの生活の安全を確保しようした国家が、よくご存じの福祉国家と呼ばれてきました。たとえば、社会保障制度も累進課税制度も一種の規制です。本来、ネオリベの提唱者たちからすると、福祉国家は、人びとから自由を奪うことで最終的には、全体主義国家へと通じています。
また、七〇年代以降は、長期化する不況と膨らむ財政赤字の原因と名指されます。だから、ネオリベは、その政府の権能を可能な限り抑える小さな政府化を目指し、規制をできる限り緩和しようとします。中村さんが挙げられた例でいえば、労働市場に対する政府の規制を緩和した結果、非正規雇用が増大し、労働がブラック化したのです。これも、労働あるいは雇用のネオリベ化の帰結です。
自己責任論が当たり前になると社会で何が起こるか
中村 では、自己責任論はどうでしょうか。これも、ネオリベ化が進んだ、平成の日本でよく聞かれた言葉でした。
藤井 人間の営みを可能な限り市場化し、その邪魔となる政府をダウンサイジングし、規制を緩めさらには撤廃していくのがネオリベの基本的な制度設計だとすれば、この制度を回していく、実際の人間、ネオリベ的人間をつくり出さねばなりません。そのための方法が、個々人には起業家精神を植え付け、社会には自己責任論を普及させることでした。
僕の知る限り、普通の人たちは、それほど競争は好きではありませんし、選択の自由もある程度与えられていれば、生活の安全を犠牲にしてまで、その自由の範囲をどこまでも広げようとは思っていないようです。しかし、これでは、ネオリベの夢は実現されません。
そこで、自らの責任の下で、リスクをヘッジしつつ選択し獲得する起業家のメンタリティを人びとに内在化しなければならない。この内在化は、マスコミをとおして、学校や家庭の教育で、あるいは職場において常に行われ続けています。それとセットで出てくるのが、自己責任論なのです。これは、低俗で唾棄すべき道徳観念なのですが、競争に負け、選択できず、必要なモノを手に入れられないのは、すべてあなた「個人の責任」であって、他人や社会、あるいは国に頼るなというわけです。
自己責任論が社会のスタンダードな道徳になれば、貧困に苦しむ人を放っておいても、売春で身を持ち崩す大学生がいても、個人も社会も気楽なわけです。政府は、困難なタスクから解放される。
中村 本書はおおよそ「新自由主義」、つまり「ネオリベ」を大きなテーマとして、政治に詳しくない僕を含めた一般読者に藤井先生が〝中高生でもわかる政治〞を教えるみたいなことをイメージしています。選挙に行けといわれても、政治や政党のことはわからない。まして自分の人生や生活に直結することとは思えない、という人はたくさんいる。
藤井 僕も大学で学生に「なぜ、投票に行かないのか」と問うと、そのようなことをよく言われます。「よく知らないから、自分の一票に責任が持てない」というわけです。いわゆる、偏差値の相当高い超難関大学でも、同じようなやり取りが必ずあります。政治学において、政治リテラシーの低下は、投票率の低下などと同様に、現代の民主主義の問題点として必ず議論されます。
ただ、今の時代、ネットで調べれば、最低限の情報は得られる。実際多くの真面目な学生たちは調べていて、それでもよくわからないという。最近思うのですが、わからない理由は、若者たちが、自分は個人としてどんな価値観を大切にしているとか、この社会はどうあるべきかとか、そういう自分の立ち位置を真剣に考える機会がなかったからではないか。
中村 自民党や現政府はネオリベ推進、その方針に反対するのが立憲民主党、共産党、社民党などの野党になる。おそらく本書が発売のときには総理大臣になっているだろう菅義偉氏も「自助、共助、公助」と、安倍政権からネオリベの継承、さらなる強化の発言をしている。とはいえ、政党がどうのこうのよりも、自分のポジショニングをしっかりとることが大切。この本がそのヒントになればいいですね。
(『日本が壊れる前に 「貧困」の現場から見えるネオリベの構造』プロローグより)
日本が壊れる前に
『日本が壊れる前に 「貧困」の現場から見えるネオリベの構造』の試し読みです。