風俗嬢やAV女優を長く取材してきたノンフィクションライターの中村淳彦さんが貧困問題にたどりついたのはいわば必然のことでした。そして、貧困をめぐる取材を進めると必ずぶつかるのが「新自由主義(ネオリベラリズム)」の問題だったそうです。しかし、「ネオリベラリズム」という単語を聞いたことがあっても、その内実を知る人は多くないかもしれません。中村さんと政治学者の藤井達夫さんが「日本におけるネオリベラリズムの実状」を解き明かす『日本が壊れる前に 「貧困」の現場から見えるネオリベの構造』(亜紀書房、2020)から抜粋してお届けします。
競争がすべて悪いとは言わない。でも人間活動のすべてを競争させる必要があるのだろうか?
藤井 僕らの社会には余裕がない。病院も個人事業もギリギリでやっている。ギリギリじゃないのは内部留保のある大企業だけ。なぜコロナの検査や追跡調査が十分できないか、もちろん、それは法律上の制約があるからですが、保健所の人員が減らされたことも無視できない要因です。公のための余剰や溜めを切り捨ててきた結果といえると思います。そうした社会の脆弱性をコロナ禍は露わにしました。
もう一つ、安倍政権の能力の低さ。やる気がないし、やれない。やっぱりネオリベは、平時の統治方法、政府のあり方。なにもないとき、大きな問題のないときにはいいかもしれません。でも、いったんなにかが起きれば、ネオリベは非常に弱い。余裕もないし、手元に駒がないので能力もない。
中村 いま、まさにとことん苦しめられたネオリベの崩壊を目にしているわけですね。
藤井 大阪を見てください。ネオリベ政党の日本維新の会。行政をスリム化するといって、とにかく公務員を減らしてきた。いま、吉村洋文知事はテレビのお陰でとくに目立っていますね。しかし、やってる感の演出で終わってしまうのではないかと心配しています。
中村 僕がネオリベのおそろしさを体感したのは、一二年前に文筆業を一度辞めて介護事業にかかわってから。とにかくお金がない、介護報酬が低いなかで苛烈な競争に駆り立てられる。当時はブラック労働も蔓延していたので、どんどん職員もおかしくなって本当に地獄だと思った。ネオリベのせいだと気づいたのは、地獄に足を踏み入れて何年も経ってからです。ずっとどうして苦しいのかわからなかった。
藤井 ネオリベは、人びとを競争に搔き立てる統治法で、余剰はギリギリまで切り詰める。だから、病院もギリギリのベッド数でまわして、介護保険の報酬も低く抑えられ、介護職は低賃金労働の代表的な職種になってしまった。
中村 生かさず殺さずですね。
藤井 競争は社会の活力を高めたり、イノベーションを促進したりするためになくてはなりませんが、しかし、競争はすべきところでやるべきなのです。子どもから老人まであらゆる人間の活動を市場化する必要はないし、むしろしてはいけない。大切なことは、市場のルールや物差しが適用されるべきでない安全な場所をしっかり確保することで、最低限度の健康で文化的な生活ができるようにすることです。そのためなら、無駄が少しくらいあってもいいじゃないか、という考えはネオリベとは相いれない。
しかも、自分自身を資本にしていくことが大事になってくる。最初の話に出たファンがいるホスト的な人、フォロワーやファンの多いインフルエンサーしか生き残れなくなってきています。ネオリベの下では生きるために自分をどんどん追い込んでいかなくてはいけない。消費行動は貯蓄よりも投資。自分のスキルにしても、常に刷新していかなくてはならない。自己投資しないと生き残れないので、お金をかけます。エステに行ったり資格を取ったり、いい服を着たり、とにかく自分に投資をしなきゃいけない。不確実性をエネルギーにして競争に自分の実存までかけて打ち勝つこと。そういう行動様式がネオリベの時代に求められてきたのです。
中村 理論上、そういう行動様式にメリットがあるから選ばれてきたわけですよね。
藤井 メリットもあるのですが、それだけではないように思います。何度か言及しましたが、福祉国家にも非常に大きな問題があった。これは間違いない。
財政赤字を増大させ、市場の活力を奪い、経済を停滞させたというよくある批判もそうですが、何より福祉国家の下での統治は、人びとから自立性を奪い、依存的にした。その結果、社会が道徳的に退廃した、という批判もありました。ネオリベの秩序観には、自立的な人たちからなる社会こそ道徳的に健全だという想定があります。この想定は手放しで受け入れられませんが、まっとうなものです。ネオリベの人間観の根底には、当然ですが、こうした道徳的な意味もあるのです。
起業家精神をもて囃す社会はそれにふさわしいカリスマを作ります。カリスマは自分を追い込んで資本化し、投資を積み重ねて成功する。二〇〇〇年代初頭の日本社会は、そういうホリエモンのような人に非常な憧れを持った。あと、ワタミの渡邉美樹氏もそうですね。でも、実際に社会でネオリベを実行すると、ついていけない人がほとんど。競争好きで、たとえ負けても再チャレンジができるというメンタリティと資本の持ち主はもちろんいますが、ごく一部でしょう。
中村 二〇二〇年代はネオリベ的な行動様式は、若い世代を中心にどんどん刷新化されて先鋭化している。SNSでの熾烈なフォロワーやファンの獲得合戦をしているし、勉強もしている。メンバーシップ型雇用に依存している中年世代より、真面目だし、大人びている印象がある。
藤井 多くの人たちは、ネオリベ社会のなかで、自分もそうなりたい、ならないと負けてしまうというプレッシャーに晒されながらなんとかやっていこうとする。勝ち組/負け組の脅迫に煽られている若者はたくさんいます。でもほとんどの人はうまくいかないから、鬱になっていくんです。僕は、年齢的に、大学院の博士課程の頃、大学もはっきりとネオリベ的なモードへ切り替わった。変わり目の世代で昭和的メンタルも引きずっているからなかなかついていけないですよね。たとえば、SNSなんかほんと苦手で、いつもまわりから怒られていますよ。
中村 団塊ジュニア世代は、総じて昭和的なメンタルを引きずっている。でも、僕は若者たちの動きをみて、同じようにネオリベ的方向に舵を切らないとまずいと思っています。団塊ジュニア世代のなかでは気づいたのは早いほうだったので、年齢が近い人たちにそのうっすらと見えてくる未来や素早く移り変わる社会状況を伝えたけど、ほとんど話が通じない。団塊ジュニア世代は現在、必死になっている若者たちのメンタリティが理解できていない。
藤井 だと思います。今の若者はみんなそれを自然に身につけていますけれども。
中村 いまの若者向けのコンテンツには、ネオリベ的な意識がない人とは会話するな、人間関係を断絶しろ、というようなことがバンバン書いてある。厳しい競争のなかで転落しないで生きること、成功することを目的にすると、その意見は正しい。
藤井 僕も団塊ジュニアですから、考えてみれば受験競争もすごかった。今の競争とはまた違いますが。ただ、あの頃の競争はあくまで学歴競争でした。別に学歴競争から漏れたって、普通に平穏に生きていけた。今の若者たちの競争は、すべてがかかっているから熾烈ですよ。決定的に違う。競争は人間を強くもするし、意欲的にさせる。だから能力を発揮させるためには、ある程度の競争は絶対に必要だと思います。でも、競争にかけていいものとかけちゃいけないものが、やっぱりあるわけです。
中村 ネオリベ化してよくないことになったのは病院や保育園、介護施設、大学、自治体などの公共サービスでしょう。そしてこれから小学校、中学校まで手が伸びようとしている。競争に晒される労働者が希望を失って、病み、崩壊するでしょうね。
藤井 さらにいえば、実存までかける競争は、普通の人間をダメにします。能力を発揮させるどころか、むしろ病気にして荒廃させる。競争がない社会がいいとは思わないけれど、今のようなすべてを晒して燃え尽きさせる、勝った人が総取りするような競争というのは、人類の長い歴史のなかでも初めてのことではないでしょうか。
中村 士農工商、資本家と奴隷、地主と小作人、ブラック経営者と労働者などなど、黒歴史が続き、いまはネオリベの黒歴史の渦中にあるわけですね。
藤井 ネオリベが怖いのは、単に人を貧困にさせることだけではありません。もっと怖いのは、社会システム自体が人びとを貧困にさせ、人間の心を蝕んでいるということ。そのようにして脆くなった社会の、もっとも脆い部分を、コロナは突いたわけです。
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試し読みは今回で終わります。続きは、『日本が壊れる前に 「貧困」の現場から見えるネオリベの構造』をご覧ください。
日本が壊れる前に
『日本が壊れる前に 「貧困」の現場から見えるネオリベの構造』の試し読みです。