いま私たちに本当に必要な勉強とは? この問いに、もっとも明快に答えてくれる人物のひとりが、60歳にして戦後初の独立系生保を開業した起業家で、ビジネス界きっての読書家でもある、ライフネット生命保険創業者の出口治明さんです。その出口さんの代表的ベストセラー、『人生を面白くする本物の教養』から、読みどころをご紹介する「出口塾」を開講します!
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歴史上の偉人と対話できる
先ほど、本も人だと言いました。なかでも歴史の本は、先人との出会いということになります。歴史の本を読めば、私たちは偉大な歴史上の人物とも対話ができるわけで、そう考えるととても素敵なことです。
キケロは「自分が生まれる前のことについて無知でいることは、ずっと子どものままでいることだ」という名言を残しています。大人になるということは、生まれる前のことを知るということなのです。つまり歴史に触れるということです。
歴史上の人物と対話をしようと思ったら、優れた歴史の本が必要です。優れた歴史書があれば、先人がどのような状況で、どう考え、どう行動したかがよく分かります。優れた歴史書であればあるほど、彼らの思考や判断の実相に肉迫することができます。そして、たとえ間接的であっても、彼らが体験したことを追体験することによって、私たちの血肉になるものを必ず得ることができます。
歴史については、「民族の数だけ歴史がある」と言う人がいますが、私は違うと思っています。民族の数だけあるのは歴史に対する「思い込み」や独自の「解釈」です。起こった歴史(出来事)自体は、あくまでも一つです。
しかし、その起こった「一つの出来事」がどのようなものだったかがよく分からないことが多々あります。時代をさかのぼればさかのぼるほど、一次資料の制約も生じてきます。その謎のすき間をモザイクのような断片情報を少しずつ積み重ねて埋めていくのが歴史という学問です。
歴史とは、さまざまな資料や文献、自然科学的知見(花粉分析など)などを総動員して少しでも「一つの出来事」に近づこうとする営為です。歴史書は(歴史小説も含めて)、基本的にそのスタンスで書かれることが望ましいと思っています。
司馬遼太郎は「歴史書」か?
ところが、作者が初めからこういうストーリーの歴史を題材にした物語を描きたいと思って、自説に都合のいいモザイクの断片だけを恣意的に採用する場合がよくあります。「物語」としてはそれでもいいと思いますが、それを「歴史」と混同してはなりません。
日本の経営者が好きな作家に司馬遼太郎がいますが(私も大好きです)、司馬作品は一般に「物語」性が強く、とても「歴史」とは言えないと思います。「司馬史観」という言葉があるように、司馬遼太郎の「物語」は初めに結論ありきのような気がしています。その結論に合致するモザイクだけを採用して、話が美しく組み立てられています。
司馬作品はある意味でトルストイの作品に似ています。トルストイについては、歴史学者のジョン・ルカーチ氏が次のように評しています。「『戦争と平和』に描かれた歴史は、トルストイ個人の意見と偏見によって、歪められ、ねじ曲げられている」(『歴史学の将来』みすず書房)。同じことが、程度の差はあっても司馬作品にも言えるのではないでしょうか。
司馬作品はエンターテイメントの「物語」として読めば面白いし、文章も素晴らしい。読者を酔わせてくれるものがあります。しかし、「歴史」小説ではない。
「歴史」小説は、できるだけエビデンスに基づいて当時の出来事を正確に再現し、どうしてもエビデンスが足りないところだけを想像力で補うものだと思います。起こった「一つの出来事」に限りなく誠実であろうとするのが「歴史」や「歴史」小説本来のあり方だと思うのです。
その意味では、司馬作品よりはたとえば半藤一利氏の作品のほうが、はるかに「歴史」に近いのではないでしょうか。