ノンフィクション作家・森功さんが故・齋藤十一に迫った傑作評伝『鬼才 伝説の編集人 齋藤十一』が発売になりました。齋藤十一は「週刊新潮」「フォーカス」等を創刊し、小林秀雄や太宰治、新田次郎、山崎豊子、松本清張ら大作家に畏怖された稀代の天才編集者です。「新潮社の天皇」「出版界の巨人」「昭和の滝田樗陰」などの異名をとりながらも、ベールに包まれてきた齋藤十一の素顔とはー。
小林秀雄は満州事変の勃発した一九三一(昭和六)年から鎌倉に住むようになる。「山の上の家」と呼ばれ、今も保存されている北鎌倉の小林秀雄旧宅ではなく、戦時中は寿福寺境内に住んでいた親友、中原中也の近所の扇谷に家があった。終戦を迎えて新潮を復刊させるにあたり、齋藤は鎌倉に日参した。
「小林先生が三十年住んだ『山の上の家』へ引っ越したのが昭和二十三年ですから、齋藤さんが訪ねたのはその前(の扇谷の家)だと思います。小林先生は日頃とても寡黙で、それに耐えられなくて出入りできなくなった編集者は数え切れません。でも、本当は話がうまくて、酒を飲んだら独演会がとまらない。その独演会で聞いた話ですが、訪ねてきた齋藤さんに言った小林先生のアドバイスは、『トルストイを読め』というたったひと言。トルストイ全集はもちろん、作品だけじゃなく、日記からメモ書きにいたるまで、とにかくトルストイが書き残したものは全部読め、と齋藤さんに言ったんだそうです。先生はたしかに滔々と諭すような話し方はしませんから、それだけだと思います」
小林は初対面の頃の齋藤とのやり取りを池田に再現してみせたという。
「そのほかに、どのようにすればよろしいでしょうか」
そう問いかける齋藤に対し、小林は短く伝えた。
「そのほかには何も読む必要はないっ。トルストイだけを読めばいいんだよ」
齋藤はそれ以上の雑談をせず、小林邸をあとにした。事実、小林は齋藤に薦めたときと似たような話を「小林秀雄全作品」の第十九集に描き残している。
〈若い人々から、何を読んだらいいかと訊ねられると、僕はいつもトルストイを読み給えと答える。すると必ずその他には何を読んだらいいかと言われる。他に何にも読む必要はない、だまされたと思って「戦争と平和」を読み給えと僕は答える。だが嘗て僕の忠告を実行してくれた人がない。実に悲しむべきことである。あんまり本が多過ぎる、だからこそトルストイを、トルストイだけを読み給え。文学に於いて、これだけは心得て置くべし、というようなことはない、文学入門書というようなものを信じてはいけない。途方もなく偉い一人の人間の体験の全体性、恒常性というものに先ず触れて充分に驚くことだけが大事である〉
齋藤と小林の邂逅について改めて池田に聞いた。
「さしもの齋藤さんも、鎌倉の家を初めて訪ね、ほぼ初対面ですから、余裕がなかったんだと思います。小林先生に言われるがまま、『わかりました』とだけ返事をして席を立ったそうです」
さらに池田がこう言葉を補う。
「小林先生がトルストイを薦めたのは齋藤さんだけではなく、他にもいます。しかし先生は、『それを本当に実行したのは齋藤さんだけだった』とおっしゃっていました。トルストイが描く人間の業がおもしろい。齋藤さんは先生の教えどおり、とにかく必死にトルストイを読んだ。小林先生のひと言を実行し、新潮という雑誌の大本をつくった。そこから戦後の新潮が大爆発して、名作を連発していくわけです」
ここから齋藤と小林という出版界の巨人同士の長く、深い交友が始まる。小林の教えを実践して新潮の編集長になった齋藤は二十年ものあいだ、その座に君臨した。事業の所属長としての肩書は、これが最初で最後である。佐藤義亮の孫、陽太郎は次のような話をした。
「今の新潮社のあたりは、戦争ですっかり焼け野原になってしまいましてね。戦後は人通りもまばらで、たまにボンネットバスが会社の前の牛込中央通りを通るぐらいでした。そうして会社を復興した新潮社は、その焼け野原で野球をやり出しました。隣が赤尾一族の旺文社で、出版界ではなぜか野球が盛んになりましてね。そこへ朝日新聞など新聞社も参加し、リーグ戦をやるようになりました」
陽太郎の父哲夫は新潮社から去ったが、親族のあいだで仲たがいしたわけではない。戦後、義亮のあとを継いで新潮社二代目社長に就いた義夫は自ら陣頭指揮を執り、佐藤家と新生新潮社の幹部社員で野球チームを結成した。むろん齋藤もチームの中心メンバーとして加わっている。
「義夫伯父さんが終戦間もないリーグ戦の始球式でピッチャーとして登場しました。今でも覚えていますよ。義夫伯父さんはものすごい快速球のストライクを入れて、みながびっくりしたのを。『オーッ』とすごい歓声があがったものです。キャッチャーが永田(卓)で、ファーストが専務になった俊夫伯父さん、ショートがうちの親父で、サードが齋藤さんでした。外野は亮一兄さんがレフト、センターが野平(健一)さん、ライトが野原(一夫)さんでした。そんなチームで、近くの若松町の成城中学グラウンドや都営グラウンドで試合をするので、僕たちも応援に駆け付けました」
永田、野平、野原はいずれも終戦間もなく新潮社に入社した新入社員だ。齋藤はさほど得意ではなかったようだが、佐藤義夫の野球好きが嵩じ、新潮社はのちに社会人野球に力を入れて全日本軟式野球大会で準優勝まで果たした。むろんその頃になると、齋藤は応援にまわった。
鬼才 伝説の編集人 齋藤十一
「週刊新潮」「フォーカス」等を創刊。雑誌ジャーナリズムの生みの親にして大作家たちに畏怖された新潮社の天皇・齋藤十一。出版界の知られざる巨人を描いた傑作評伝。