ノンフィクション作家・森功さんが故・齋藤十一に迫った傑作評伝『鬼才 伝説の編集人 齋藤十一』が発売になりました。齋藤十一は「週刊新潮」「フォーカス」等を創刊し、小林秀雄や太宰治、新田次郎、山崎豊子、松本清張ら大作家に畏怖された稀代の天才編集者です。「新潮社の天皇」「出版界の巨人」「昭和の滝田樗陰」などの異名をとりながらも、ベールに包まれてきた齋藤十一の素顔とはー。
終戦を迎えた日本の出版界では、配給制となった紙だけではなく、インキや輸送物資などあらゆる資材が枯渇し、事業が困窮を極めた。齋藤はそんな難しい時代に看板雑誌の復活を託されたことになる。まだ三十一歳、相当なプレッシャーを感じたに相違ない。
ところが、結果を見るとそんなプレッシャーを感じさせない。齋藤は着任早々から辣腕ぶりを発揮し、新潮社の新たな伝説を築いていった。
復刊と同時に新潮の編集長に就いた齋藤は翌三月、高見順による連載「わが胸の底のここには」を始めた。その次の四月には坂口安吾を起用する。
安吾の文壇デビューは戦前の一九三一年、同人誌「青い馬」に発表した「風博士」にさかのぼる。その次の「黒谷村」が島崎藤村らに認められ、小林秀雄や井伏鱒二らが寄稿していた同人誌「文科」に誘われた。もっともその後は鳴かず飛ばずだった。福田恆つね存ありでさえ「坂口安吾選集」(銀座出版社)の解説にこう書いているほどである。
〈ぼくなども「白痴」の発表によってはじめて彼の存在を知った。それまではかれの名まへは一部のひとたちには古くから知られてゐても、ジャーナリズムや一般の読者には親しまれてゐなかった〉
その「坂口安吾に書かせてみたらどうか」と齋藤に薦めたのが、新潮の編集顧問を頼んだ仏文学の河盛好蔵だった。そして齋藤は河盛の助言にしたがい、「堕落論」や「白痴」を掘りだした。
安吾は新潮の「堕落論」で、特攻隊の生き残りが闇屋に成り下がるさまや戦争に打ちのめされた日本人の境遇を描き、ジャーナリズムのセンスを見せつけた。続く六月には「白痴」を発表、おかげで新潮は一挙に部数を伸ばした。この月に新潮の編集主幹だった中村武羅夫が正式に退社し、新潮社の出版部門は名実ともに齋藤の手に委ねられる。それを助けた大番頭が野平健一だった。
終戦とともに経営陣を一新した新潮社では、齋藤が中心になり、編集体制をつくりなおした。この年の八月、野平が新潮社に入社する。東京府立第六中学校(現・都立新宿高校)から第三高等学校(現・京都大学)、京都帝大に進んだ野平は、海軍の飛行科予備学生を経て静岡県の大井海軍航空隊に所属し中尉として終戦を迎える。京都帝大に復学したのち、新潮社の入社試験に合格した。七百人の入社試験応募者のうち、二名しか採用されなかった狭き門を突破したという。入社試験のもう一人の合格者が、東京帝大独文科から入社した野原一夫だ。
齋藤はこの二人の新入社員を使い、新たに太宰治を新潮に引きこんだ。太宰もまた、安吾と同じく、作家デビューは戦前だが、なかなか日の目を見ずに燻っていた逸材だった。
一九〇九(明治四十二)年六月青森県北津軽郡金木村(現・五所川原市)生まれの太宰は、齋藤より五歳上だ。旧制弘前高校時代にプロレタリア文学に目覚めて左翼活動に没頭するが、東京帝大仏文科に進み、昭和初期に敬愛する井伏鱒二へ小説の原稿を持ち込み、指導を仰いだ。この頃から作風を変えていく。
太宰は無名ながら三五年に創設されたばかりの芥川賞に「逆行」でノミネートされた。齋藤にとっては新潮社に入社した前後のことであり、当人の作風に関心を抱いてきた。半面、太宰自身はまだまだ文壇で認められてはいない。
〈芥川賞をもらえば、私は人の情に泣くでしょう。そうして、どんな苦しみとも戦って、生きてゆけます。(中略)佐藤さんは私を助けることができます〉(野原一夫著「太宰治 生涯と文学」より)
太宰は芥川賞選考委員の佐藤春夫に手紙でそう懇願した。鎮痛剤のパビナール中毒になっていた当人は薬を買うためにあちこちに借金し、その相手に〈アクタガハシャウ八分ドオリ確実〉とまで書いた。芥川賞の賞金五百円を借金返済の当てにしていたのである。
だが、太宰は落選した。この頃、新潮の編集者だった楢崎勤が太宰を励ましていたという。齋藤の先輩編集者だ。
そして編集長として新潮の復刊を託された齋藤は、この太宰を起用した。太宰を薦めたのは、またも河盛だった。戯曲「冬の花火」を書いたあと、太宰は河盛宛に次のような書簡を出している。
〈『冬の花火』は、ひどく悪く言うひとがあるようで残念でした。お説の如く、数枝という女性に魅力を感じてもらえたら、それで大半私は満足なのです〉(四六年八月二十二日付)
そして太宰は、一九四七年の新潮七月号から連載を始めた「斜陽」で大ブレークする。
もとはといえば、新入社員の野原が太宰と親交があり、齋藤は新潮に「斜陽」の原稿を依頼させた。ところが敢えて野原ではなく、野平を原稿のやり取りをする窓口とした。野平は太宰が心中したとき警視庁三鷹署の検視に立ち会ったほど信用されてきた担当編集者として知られるようになる。一方、野原は二年で新潮社を辞めて角川書店や筑摩書房と転籍したのち、評論家、文筆家として独立する。
「斜陽」は、戦前に栄えた華族が終戦を迎えて没落していくさまを描き、太宰ブームに火がついた。「斜陽族」という流行語まで生み、太宰は五味康祐らとともに「三鷹の三奇人」と呼ばれて、無頼派のスター作家となる。佐藤陽太郎は父親の哲夫から、そのあたりの話を聞かされている。
「斜陽の執筆を依頼した頃、編集責任者(出版部長)として僕の親父の佐藤哲夫がまだ新潮社に残っていました。入社したばかりの野平さんが太宰を新潮社に連れて来て、父と齋藤さんが出迎えたらしい。それで太宰は歓待をされた気分になって、すごく喜んだそうです。太宰だけではないでしょうけど、あの頃の若い作家はカストリ作家と呼ばれ、ろくに原稿も書かず新宿あたりで酒びたりの暮らしを繰り返していました。で、その日も、帰りに野平さんと太宰が新宿へ飲みに行ったそうです」
陽太郎はこうも言った。
「太宰が死んだ日、僕の親父が『俺も現場に行こうか』と野平さんに言ったら、『そこまでやる必要はない』と言われたそうです。父は酒を飲むと、『あのときは、俺も行ってみたかったんだけどなあ』とよく話していました」
その後、太宰は「人間失格」を発表し、新潮に書き始めて三年目の四八年三月号より、仏教の経典から題名をつけた評論「如是我聞」の連載を開始した。そこにこうある。
〈他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ。敵の神をこそ撃つべきだ。でも、撃つには先ず、敵の神を発見しなければならぬ。ひとは、自分の真の神をよく隠す〉
太宰は志賀直哉と激しくぶつかり、そう宣言して連載を始めたという。
〈自分は、この十年間、腹が立っても、抑へに抑へてゐたことを、これから毎月、この雑誌に、どんなに人からそのために、不愉快がられても、書いて行かなければならぬ〉
そして、「如是我聞」が遺稿となる。この年の六月十三日、山崎富栄といっしょに玉川上水に下駄をそろえ、入水自殺した。編集長の齋藤はその死のひと月後、絶筆となった「如是我聞」を新潮の七月号に掲載した。
齋藤は文芸編集者としては珍しく、時代を敏感にとらえてきた坂口安吾や太宰治に目をかけ、大切に扱ってきた。そんな齋藤の好よしみが、新潮ジャーナリズムと形を変え、花開く。
新潮の編集長というポストを得た齋藤は瞬く間に天才編集者として、斯界にその名を刻んでいった。それができたのはなぜだろうか。その編集現場には二人の相談相手がいた。一人が小林秀雄、そしてもう一人が河盛好蔵である。
齋藤は新潮の編集長でありながら、やがて文芸誌とはまったく異なる雑誌を発案し、成功させていく。新潮の復刊から四年後の一九五〇年には「芸術新潮」、その六年後の五六年に「週刊新潮」、さらに写真誌の「フォーカス」と総合月刊誌の「新潮45」……。それらはすべて齋藤が始めた雑誌だといっていい。
鬼才 伝説の編集人 齋藤十一
「週刊新潮」「フォーカス」等を創刊。雑誌ジャーナリズムの生みの親にして大作家たちに畏怖された新潮社の天皇・齋藤十一。出版界の知られざる巨人を描いた傑作評伝。