百歳を超えてもなお第一線で制作に励んだ美術家の篠田桃紅さんが、一〇七歳で逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。老いに潔く向き合い、ただ生きるだけでなくどう生きるかを貫いた桃紅さんの珠玉のエッセイ集『一〇三歳になってわかったこと』から、心に響くメッセージをお届けします。
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人は、用だけを済ませて生きていると、真実を見落としてしまいます。真実は皮膜の間にある、という近松門左衛門の言葉のように、求めているところにはありません。しかし、どこかにあります。雑談や衝動買いなど、無駄なことを無駄だと思わないほうがいいと思っています。
無駄にこそ、次のなにかが兆(きざ)しています。用を足しているときは、目的を遂行することに気をとらわれていますから、兆しには気がつかないものです。
無駄はとても大事です。無駄が多くならなければ、だめです。
お金にしても、要るものだけを買っているのでは、お金は生きてきません。安いから買っておこうというのとも違います。無駄遣いというのは、値段が高い安いということではなく、なんとなく買ってしまう行為です。なんでこんなものを買ってしまったのだろうと、ふと、あとで思ってしまうことです。しかし、無駄はあとで生きてくることがあります。
私は、三万円だと思って買ったバッグが三十万円だったことがありました。ゼロを一つ見落としていたのです。レジで値段を告げられて驚きましたが、いい買い物をしたと思っています。何十年来とそのバッグを使っています。そして、買ってしばらくしてから、そのバッグの会社オーナーが私の作品を居間に飾っていることを雑誌で知って、あらお互いさまね、と思いました。
時間でもお金でも、用だけをきっちり済ませる人生は、1+1=2の人生です。無駄のある人生は、1+1を10にも20にもすることができます。
私の日々も、無駄の中にうずもれているようなものです。毎日、毎日、紙を無駄にして描いています。時間も無駄にしています。しかし、それは無駄だったのではないかもしれません。最初から完成形の絵なんて描けませんから、どの時間が無駄で、どの時間が無駄ではなかったのか、分けることはできません。なにも意識せず無為にしていた時間が、生きているのかもしれません。
つまらないものを買ってしまった。ああ無駄遣いをしてしまった。
そういうときは、私は後悔しないようにしています。無駄はよくなる必然だと思っています。
なんとなく過ごす。
なんとなくお金を遣う。
無駄には、
次のなにかが兆している。
必要なものだけを買っていても、
お金は生きてこない。
一〇三歳になってわかったこと
生きているかぎり、人間は未完成。大英博物館やメトロポリタン美術館に作品が収蔵され、老境に入ってもなお第一線で制作を続けた現代美術家・篠田桃紅。「百歳はこの世の治外法権」「どうしたら死は怖くなくなるのか」など、人生を独特の視点で解く。