緊急事態宣言が発出された夜に作った名曲「緊急事態宣言の夜に」で、「大切な人をなくしたくないんだ」と歌ったミュージシャン・さだまさし。コロナ禍における、想いと行動の記録を綴った新刊『緊急事態宣言の夜に ボクたちのコロナ戦記2020』より試し読みをお届けします。
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夏の甲子園に思うこと
さまざまな出来事がありながら、ものすごいスピードで駆け抜けていった僕 たちの2020年の夏。
8月は、ほかの月に比べて早起きです。
広島の8月6日8時15分。
長崎の8月9日11時2分。
仮にベッドの上であろうと、野球大会の二塁ベース上であろうと、その時間には静かに合掌して平和を祈るのは子どもの頃からの約束です。
それとは別に、夏といえば、僕には毎年楽しみにしている風物詩があります。全国高等学校野球選手権大会、通称「夏の甲子園」です。
毎年、夏の甲子園の開会式は何があっても必ず見ることにしています。
あの開会式が夏の甲子園の象徴です。厳しい予選を勝ち抜いて集まった全国 の球児が甲子園を一周し、外野に横一線に並ぶ。
日本の夏のテーマ曲ともいえる『栄冠は君に輝く』に合わせて、球児たちが 内野に向かって前進してくる瞬間、僕は、毎年涙をこぼします。
しかし、今年は開会式が見られませんでした。コロナウイルスの影響により、 大会自体がなくなってしまったためです。
昔、『甲子園』という曲を作りました。1983年に出したアルバム『風のおもかげ』に収録されています。
蝉時雨降りしきる中、喫茶店で高校野球の中継を見ながら、大好きな彼女との、別れの時を迎えている主人公。テレビの中でアナウンサーの「ホームラ ン」という叫び声に誰かの青春が終わるのを聞いている。やがて試合の最後に は補欠選手が代打指名され、甲子園最初で最後の打席に入ってゆく。主人公にとってはこの恋の最後の打席。
そんなシーンを切り取った歌でした。
夏の甲子園はトーナメント方式なので、たったの一度も負けないチームはひとつだけ。
だが、負けたチームも負けたのはたった一度だけ、と歌いました。
今年、球児たちにはその「只一度負ける」という機会さえ与えられなかった のです。全国高等学校野球選手権大会は開催されず、勝者なき夏になりました。
でも、「誰も勝てなかった夏」と言うのは嫌です。
「誰も負けなかった夏」と言いたいのです。
戦えなかったことがきっと今は、悔しくて、大切な夢を理不尽に奪われたような気持ちでしょう。
実際に、このことで自分の将来が大きく変わってしまう人もあると思います。
しかし必ず、「あの時に甲子園がなくなったから、今の俺があるんだ」と思える日が来るはずです。
人生はそういうものだからです。
ところで、甲子園が中止になったとき、ひとつの疑問が頭を駆けめぐりました。
今年の夏の甲子園は、第102回大会の予定でした。それが中止になったのだから、来年の大会の名称はどうなるのだろうかと。延期扱いで来年の大会を第102回と呼ぶのか、それとも第103回にするのか。些細なことと思われるかもしれませんが、一大事です。今年が消えてしまうことになるのは可哀想 だと考えたからです。
しかし主催者も同じ気持ちでした。今年の夏、第102回は中止とされ、来 年の夏の甲子園は第103回になることが発表されたのが、実は密かにとても嬉しかったのです。
今年の夏の切符や栄光をつかんだかもしれない球児たち、そして地方大会で敗退してしまったかもしれない球児たちにとって、第102回大会は確かに存 在したからです。
栄冠は君たちに輝きました。