百歳を超えてもなお第一線で制作に励んだ美術家の篠田桃紅さんが、一〇七歳で逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。老いに潔く向き合い、ただ生きるだけでなくどう生きるかを貫いた桃紅さんの珠玉のエッセイ集『一〇三歳になってわかったこと』から、心に響くメッセージをお届けします。
* * *
私は美術家ですが、美術家になりたいと思ったことは、一度もありませんでした。自らの人生を、自由に選択すること自体が困難な時代に育ちましたので、自由に生きることを希求していたら、美術家になっていた、という感じです。
私の十代、二十代は、日中戦争、そして第二次世界大戦がありました。
戦時中は、誰もが生きることの制約を受けましたが、なかでも、私の胸に刺さった女学校時代の教師の言葉があります。それは歴史の授業でしたが、「あなたがたは、こうして座って私の講義を受けていますが、今この瞬間にも、あなたがたと同じ年齢の貧しい農家の娘たちは、凶作のために売られて、お女郎になっているんですよ」。
当時の若い女性にとって、女学校を卒業したら、学校の先生や親がすすめる相手に嫁ぐことが、生きていくための最上の手段でした。私の友人も次々とお見合い結婚していきました。
しかし、その時代は、家制度による古い慣習が重んじられていましたので、なかには、夫を戦地で亡くし、子どもがいないにもかかわらず、嫁いだ夫の家を出ることができず、奉公を続けていた友人もいました。夫が戦死した友人は、幾人もいました。
結婚するなら、家制度に縛られず、自分の納得できる相手としたい、と私は考えましたが、戦時下に、男の人がそういるわけでもなく、かといって、実家に居座っているわけにもいかなくなりました。実家には、時間の問題で、一番上の兄のお嫁さんが嫁いで来ることになっていたからです。厄介者の私は家を出なくてはならず、私には、自らが身を立てて生きていくよりほかはありませんでした。
そこで、私は、書の先生から、あなたの実力なら教えていいです、と言われていましたので、お弟子さんをとって、教えることにしました。
そして、書に専念しているうちに、私はどんどん深みにはまり、次第に、文字は、こう書かなければならない、という決まりごとに、窮屈さを覚えるようになりました。
たとえば、川という字には、タテ三本の線を引くという決まりごとがあります。しかし、私は、川を三本ではなく、無数の線で表したくなったのです。あるいは長い一本の線で、川を表したい。
文字の決まりごとから離れて自由になりたい、新しいかたちを生み出したい、と私は希(ねが)うようになり、墨による抽象表現という、自分の心のままを表現する、新しい分野を拓(ひら)きました。幸いにも、私の作品は、ニューヨークで評価されて、世界にも少々広がりました。
ですから、私の場合は、こうなりたい、と目標を掲げて、それに向かって精進する、という生き方ではありませんでした。自由を求める私の心が、私の道をつくりました。すべては私の心が求めて、今の私がいます。
自分の心が
自分の道をつくる。
「川」を無数の線で、
あるいは長い一本の線で表したい。
一〇三歳になってわかったこと
生きているかぎり、人間は未完成。大英博物館やメトロポリタン美術館に作品が収蔵され、老境に入ってもなお第一線で制作を続けた現代美術家・篠田桃紅。「百歳はこの世の治外法権」「どうしたら死は怖くなくなるのか」など、人生を独特の視点で解く。