ノンフィクション作家・森功さんが故・齋藤十一に迫った傑作評伝『鬼才 伝説の編集人 齋藤十一』が発売になりました。齋藤十一は「週刊新潮」「フォーカス」等を創刊し、小林秀雄や太宰治、新田次郎、山崎豊子、松本清張ら大作家に畏怖された稀代の天才編集者です。「新潮社の天皇」「出版界の巨人」「昭和の滝田樗陰」などの異名をとりながらも、ベールに包まれてきた齋藤十一の素顔とはー。
齋藤はどんなに著名な人気作家であろうと、依頼した原稿が気に入らなければ容赦なく切り捨ててきた。それゆえ作家からたいそう恐ろしい編集者のように見られてきた。
貴作拝見、没──
出版界で語り草になってきた依頼原稿に対する齋藤の返答が、これだ。とりわけ五味康祐は、新潮編集長になったばかりの若い齋藤の冷たい仕打ちの犠牲になった作家といえる。このひと言だけを書いた葉書が届くたび、五味は落胆し、途方に暮れた。のちに週刊新潮で「柳生武芸帳」を連載して国民作家となる五味は、終戦間もない東京の神田で齋藤と出会った。
一九二一(大正十)年十二月、大阪・八尾市に生まれた五味は、日本の伝統回帰を目指した日本浪曼派の保田與重郎に師事した。齋藤より七歳下だから、終戦時はまだ二十代のなかばだ。大阪から中国大陸に学徒出陣し、戦地から引き揚げてきたばかりだった。
引き揚げ後、いったん大阪に戻った五味は、保田と同じ浪曼派の亀井勝一郎を頼って上京し、三鷹市に住んだ。太宰治や大相撲の元横綱・男女ノ川登三(本名・坂田供次郎)とともに「三鷹の三奇人」の一人として文壇で注目されるが、職もなく、食うや食わずなのに、クラシック好きで神田のレコード屋をふらついていた。
一方、麻布中学時代にクラシックに夢中になった齋藤は、新潮社に入ったあとも暇さえあれば音楽店をのぞき、LPやSPレコードを買いあさっていた。やがて神田の「レコード社」社長の松井譲の知遇を得て、そこに出入りするようになる。
松井は終戦後、五味を知り、音楽好きの齋藤に引き合わせた。それが二人の出会いだった。クラシックマニア同士、意気投合した齋藤は、職のない五味を新潮社の校正係として雇った。校正作業のかたわら、小説修業をするよう勧めたのである。
齋藤がそこまで肩入れしたのは、五味の文才を見抜いたからだけではないかもしれない。新潮社で文芸編集に携わり始めたばかりの頃、齋藤は保田與重郎に傾倒した。亀井とともに「日本浪曼派」を創刊した保田は、齋藤が新潮社に入社した明くる一九三六年、「日本の橋」でデビューし、すぐさま第一回池谷信三郎賞を受賞。四二年には新潮社から「日本語録」を刊行している。太平洋戦争中に中国に渡り、文芸・社会評論家として実績を残していった。中国大陸への戦線拡大に利用された国家神道を危ぶんだ保田は、その一方でアジア文明の熟成を望んだ。
ところが、終戦を迎え中国から引き揚げると太平洋戦争を正当化したと批判されるようになる。他の多くの言論文化人と同じく、戦争協力者として公職追放され、書く場を奪われた。
この保田を再び言論の表舞台に立たせようとしたのが、ほかならぬ齋藤だった。齋藤は終戦の翌四六年十月、保田に手紙を書いた。谷崎潤一郎の甥の文芸評論家、谷崎昭男が「編集者 齋藤十一」の中でその全文を紹介しているので、一部抜粋する。
〈御無事でお帰りになつた事仄聞いたしました。先づ御無事であつた事を心から喜び申上ます。ずい分世の中は変りましたが、一向に僕は変りません。恐らく保田さんも変らないでせう。僕は今は「新潮」の編輯をやつてゐます。去年の十一月号からですから丁度間もなく満一年になります。空襲中も終戦後も、奥様やお子様はどうしてゐらつしやるかと心配はして居りましたが、自分のことにとりまぎれてお見舞も出来ませんでした。お詫び致します。色々な事、お目にかかつてお話したいと思ふ気持はしきりですが、今日はとりあへず原稿を書いていたゞくお願ひだけに止めておきます。保田さんは恐らくお書きになる気持は無いか、と思ひますが、若しも何か書いて見よう、といふお気持が出たら、新潮に是非書いて下さい〉
新潮の編集長になりたてだった三十過ぎの齋藤が綴った素朴な原稿依頼である。飾り気がなく真摯な書簡だ。こうも書いている。
〈どんなものでも良いから近いうちに書いて下さいませんか〉
齋藤の後押しで、保田は文壇に復帰し、六〇年代以降本格的に活動を始めた。
この保田に師事して浪曼派で文筆活動を始めた五味を知った齋藤が、保田との関係を意識しないはずはない。齋藤は、暮らし向きもままならない五味に新潮社の校正係として職を与えただけでなく、弟のように可愛がり、自宅に招いてはいっしょにレコードを聴いた。
もっともいざ小説のことになると、齋藤は厳しい。五味は「文学地帯」という同人誌を主宰し、そこで「天の宴」や「問ひし君はも」などの短編小説を描いてきた。しかし、同じ三鷹の三奇人でも太宰治と異なり、齋藤は五味の純文学を認めなかった。五味は新潮に掲載してもらおうと、齋藤に数え切れないほどの作品を渡したが、すべて突き返された。そのとき決まって添えた短いメッセージが「貴稿拝見、没」あるいは「貴作拝見、没」である。拝読や熟読、精読ではなく、拝見としたのは、ひと目見て駄目だと判断したという意味だろう。
そうして五味が苦労を重ね、たどり着いた著作が剣豪小説であり、そこへ導いたのが齋藤なのは言うまでもない。浪曼派の五味は大衆小説を描いたことがなかったが、一九五二(昭和二十七)年十二月、新潮十二月号に小説「喪神」を掲載する。「喪紳」は翌五三年一月の第二十八回芥川賞に選ばれ、選考委員の一人だった佐藤春夫はこう絶賛した。
「受賞作は五味康祐の『喪神』か、松本清張の『或る「小倉日記」伝』以外にはないと確信した。その練達な筆致が群を抜いてあたかも幻雲斎の剣を思わせるものがある」
五味の芥川賞受賞からまる四年後の五六年二月、齋藤は週刊新潮を創刊する。そこで五味の連載小説「柳生武芸帳」が大ヒットする。
鬼才 伝説の編集人 齋藤十一
「週刊新潮」「フォーカス」等を創刊。雑誌ジャーナリズムの生みの親にして大作家たちに畏怖された新潮社の天皇・齋藤十一。出版界の知られざる巨人を描いた傑作評伝。