「ルパンの娘」「K2 池袋署刑事課 神崎・黒木」で話題の横関大さん。最新刊は犬犬犬犬犬だらけのハートウォーミングミステリ『わんダフル・デイズ』。
盲導犬訓練施設で働く歩美は、訓練士の研修生。
たくさんのラブラドール・レトリバーに囲まれて、一人前になるため勉強中。
ある日、盲導犬と暮らす飼い主から「犬の様子がおかしい」と連絡を受け、犬と話せるという、美男子なのに謎多き先輩訓練士・阿久津と一緒に様子を見に行くことになるが……。
お利口に職務を全うする盲導犬たちの姿を通して見えてくるのは、その飼主、家族など、人間たちの悩み、嘘、そして罪。
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「よっこい庄一」と声をかけ、岸本歩美は水の入ったバケツを持ち上げた。隣にいた男子研修生がにこりともせずに言う。
「何すか、それ」
「知らないの? 横井庄一。めっちゃ有名人だよ」
「知らないっすよ。それって古いギャグでしょ。歩美さん、だいぶオヤジ入ってますね」
「うるさい。早く片づけて。次の仕事が待ってるわよ」
男子研修生は手にしていたモップを用具入れの中に入れた。歩美は最後に犬舎を見渡した。洗い残しがないか確認するためだ。問題ないと判断し、用具入れにモップとバケツをしまった。犬舎から出て訓練場を見る。そこでは盲導犬の訓練がおこなわれている。一人の訓練士に対し、一頭の候補犬。マンツーマンでの訓練だ。
「俺もそろそろ訓練したいな」
「せめて散歩くらいはさせてくれてもいいのにな」
前を歩く男子研修生たちはそうぼやいている。犬舎の掃除などの雑用ばかりやらされる毎日だ。男子研修生がぼやくのも無理はないが、愚痴をこぼしている暇があったら、もっとしっかり作業をしろと言いたい気分だった。
ここは西多摩市にある中日本盲導犬協会が運営する盲導犬訓練施設、通称〈ハーネス多摩〉だ。文字通り、視覚障害者のための盲導犬を育成する施設である。組織としての活動は長いが、ハーネス多摩がこの場所に完成したのは今から十年ほど前だという。
中央には訓練場と呼ばれる、だだっ広い芝生が広がっている。学校のグラウンドくらいの広さだろうか。その訓練場をとり囲むように事務室などがある本館、犬たちが暮らしている犬舎、宿泊訓練のための施設など、いくつかの建物が配置されている。
歩美がここで働くようになって二ヵ月が経つ。同時期に採用された研修生の中では一番年長で、ここに来る前は生まれ故郷の奈良市で看護師として働いていた。ここの研修生募集案内をネットで見つけ、単身奈良から上京したのだ。
訓練場での訓練を横目で見ながら、歩美たち研修生はセンター本館に入った。施設全体のことはセンターと呼ばれることが多い。リノリウムの廊下を歩いて、事務室に足を踏み入れる。
「さて、ちゃちゃっと終わらせようか」
「そう簡単に言わないでくださいよ、歩美さん」
研修生の一人が顔をしかめて言ったので、歩美はキッと睨みつける。「何か文句あんの? やりたくないならやらんでもええで」
標準語を話すように心がけてはいるが、たまに関西弁が顔を覗かせる。順調に行けばそのうち盲導犬のユーザーとも接するようになるため、できるだけ標準語を使うようにと最近注意を受けたばかりだった。
「またチラシ入れか」
研修生の一人がぼやいた。テーブルの上に大きな段ボール箱が三箱、置いてあった。中にはぎっしりとティッシュペーパーが詰まっている。その一つ一つに、中日本盲導犬センターのPRチラシを挟み入れるのが今日の仕事だ。イベントで配るためのものだった。盲導犬訓練施設の運営資金は募金に頼っているため、こういう地道な作業も欠かせないのだ。
研修生たちでテーブルを囲み、作業を開始した。同時にお喋りも始まってしまったが、こればかりはどうしようもないと歩美は諦める。研修生のほとんどが大学や高校を出たばかりの新卒で入ってきているため、社会人経験のある歩美がリーダーのような役割を自然と担わされてしまっているが、歩美自身はそれを面倒だと感じることはない。三世代の大家族で育ったせいだろうと歩美は思っている。たまに口走ってしまう古いギャグは亡き祖父の影響だ。家族全員が揃った食卓で、祖父が放ったギャグを誰もが冷たくスルーする中、歩美だけが大爆笑していたものだ。
「問題は指導監督だよな」
「そうだよな。どうしよう、厳しい人と組まされたら」
現在の歩美たちの一日はこうだ。午前中は主に座学で、盲導犬に関する授業を受ける。そして午後はセンター内の雑用など、たとえば建物内を掃除したり、事務仕事を手伝ったりしている。いわば下働き的な仕事が続いているのだが、そろそろ各研修生に指導監督がつくことが事前に説明されていた。指導監督というのは、実際にセンターで働く盲導犬訓練士のことだ。師匠と弟子的な徒弟制度だと考えればいいだろう。
誰と組まされるのか。それが研修生たちの最大の関心事だ。あの人は厳しいらしい。あの人は優しいらしい。そういう噂はすでに研修生たちの耳にも入っている。
「俺たちも外で訓練したいよな」
「そうだよな。こんな天気いいのに」
その言葉に思わず歩美も外を見る。芝生の訓練場の上で、訓練士たちがそれぞれの候補犬に対して訓練をおこなっている。色は違うが、犬種はすべてラブラドール・レトリーバーだ。
かつては盲導犬といえばジャーマン・シェパードが代名詞的存在だったが、現在ではラブラドール・レトリーバーかゴールデン・レトリーバーが主流だ。シェパードは警察犬の印象が強いため、最近ではレトリーバー系の盲導犬が多く活躍している。親しみ易い風貌と、人間と行動するのに適した資質を併せ持っているのがその理由だ。このあたりのことは座学で勉強したばかりだった。
固定電話が鳴り始めた。事務室には歩美たち以外に誰もいない。訓練や雑用などで出払ってしまっているようだ。歩美は立ち上がり、受話器をとった。「はい、ハーネス多摩です」
「カネマツといいます。アクツさんをお願いできますか?」
男性の声がそう言った。声の感じからしてわりと年配の男性だ。
「阿久津でしたら、ただいま訓練の最中です。呼んできましょうか?」
「そうですか……」
電話の向こうから落胆した様子が伝わってくる。男性は続けて言った。
「訓練を邪魔するわけにはいきません。阿久津さんにお伝えください。ジャックの調子が悪いので、ちょっと見てほしい。そう伝えていただければわかります」
ジャックというのは盲導犬のことだろうと察しがついた。これは一大事だ。つまりユーザーが盲導犬の不調を訴えてきているのだ。
「わかりました。すぐに阿久津に伝えますので」
受話器を置き、歩美は事務室を飛び出した。
芝生の訓練場を探したが、阿久津の姿は見当たらなかった。
「岸本、何してるんだ、こんなところで」
阿久津の姿を探してうろついていると、センター長の小泉が話しかけてきた。小泉はセンター長という要職にありながら、今も現役で働いている最年長の訓練士だ。皆の信頼も篤い人物である。
「あ、センター長、すみません。阿久津さんを探しているんです」
「あいつだったらあそこにいるじゃないか」
小泉が指さした先に阿久津の姿があった。訓練場の片隅に座り込んでいる。阿久津の前には黒いラブラドールが座っていた。何やら犬に向かって話しかけているようだった。犬も真っ直ぐ阿久津の顔を見て、まるで真摯に阿久津の声に耳を傾けているようでもある。
「阿久津さん、大変です」そう言いながら歩美は阿久津のもとに駆け寄った。「カネマツさんという方から電話がありました。ジャックの調子が悪いらしいです」
阿久津がそれを聞き、立ち上がった。痩せているが、顔立ちは非常に整っている。ジャニーズ系とも言える顔立ちで、陰では『王子様』と呼ばれている訓練士だ。
「聞いてました? 私の話。ジャックっていう盲導犬の調子が悪いって電話があったんですよ」
「うん」
阿久津は歩美と目を合わせようとしない。まったくこちらを気にする様子がない。阿久津の姿を見ていて、歩美は苛立ちが募った。
「すぐ行きましょう。カネマツさんのところ。私が運転していきますから」
「うん」
王子様というあだ名は彼の整ったルックスに由来しているのと同時に、少し風変わりな彼の性格を揶揄したものであるのを歩美は知っていた。あまり人と打ち解けようとしない、やや気難しい性格らしい。
「とにかく車出しますから、すぐに出かける用意をしてください。駐車場で待ってます。すぐに来てくださいよ」
歩美はそう言い残してセンター本館に戻った。車の鍵を借りて、財布と免許証とスマートフォンだけを持って駐車場に向かう。五分ほど待っていると、ようやく阿久津が姿を現した。もそもそとした動作で助手席に乗り込んでくる。背が高いため、頭が天井につきそうだった。
「じゃあ行きますよ」
歩美は車を発進させた。センターの駐車場から出たところで、肝心の行き先を聞いていないことに気づく。
「それで、どこに行けばいいんですか?」
そう訊いても答えは返ってこない。んなアホな。どこ行けばええねん。歩美は心の中で突っ込んでから、もう一度訊いた。
「どこ行けばいいんですか? ドライブに来たわけじゃありませんよね」
阿久津は何も言わず、カーナビのリモコンを操作した。すると女性の音声で「運転中は危険ですので、操作をやめてください」と注意されてしまった。歩美は先行きを案じながら、路肩に車を停めた。
再び阿久津がリモコンを操作する。阿久津がセットした目的地は三鷹だった。ここから車で一時間ほどの距離だ。車を発進させようとしたところで、阿久津がシートベルトをしていないことに気づく。
「阿久津さん、シートベルトしてもらっていいですか?」
「うん」
さすが王子様だ。まるで自分が王子様の世話係になったような気分だった。歩美はアクセルを踏み、車を発進させた。
(つづく)
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