百歳を超えてもなお第一線で制作に励んだ美術家の篠田桃紅さんが、一〇七歳で逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。
自分の道を追い求め、最後まで現役を貫いた桃紅さん。その凛とした強い姿勢から紡がれる珠玉のエッセイ集・第2弾『一〇三歳、ひとりで生きる作法』より、感動のメッセージをお届けします。(連載『一〇三歳になってわかったこと』もあわせてお読みください)
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私が子どもの頃、母などが「様子がいいねえ、あの人は」という言葉を使っていた。きれいとか、美しいとか、そういう直接的な表現ではなく、昔の日本人の独特の美意識に裏打ちされた言葉だった。私は子どもながらに、「様子がいい」と言われる大人になりたいと思ったものである。
一昔前の江戸っ子も「様子がいい」という言葉を使っているのを耳にしたが、今はまったく聞かなくなった。
「様子がいい」を現代の言葉に置きかえると「カッコイイ」が近いかもしれないが、昔の「様子がいい」にはもっと含蓄があった。
「様子がいい」は、おしゃれだが、これ見よがしに目立つおしゃれではなく、どことなく素敵な身なりをしている。身につけているものは派手ではなく、安物でもなく、一生懸命に凝っているのがみえみえではない。風格があり、なんとなく上品で、えらそうではない。ふるまい、しぐさ一つにも、美が宿っている。
「カッコイイ」はちょっとした瞬間にもなりえるが、「様子がいい」はそう簡単には生まれない。外見と内面が磨かれ、醸され、人として匂い立ってくるのには、時間もかかる。
日本には「様子がいい」人がいなくなったから、誰も使わなくなったのか。日本人の美意識が変化して「カッコイイ」人のほうがいいのか。
文化は、言葉、かたち、行動などに宿るが、深みのある日本語はだんだん減っている。残念に思う。