ノンフィクション作家・森功さんが故・齋藤十一に迫った傑作評伝『鬼才 伝説の編集人 齋藤十一』が発売になりました。齋藤十一は「週刊新潮」「フォーカス」等を創刊し、小林秀雄や太宰治、新田次郎、山崎豊子、松本清張ら大作家に畏怖された稀代の天才編集者です。「新潮社の天皇」「出版界の巨人」「昭和の滝田樗陰」などの異名をとりながらも、ベールに包まれてきた齋藤十一の素顔とはー。
終戦時から続いた日本のハイパーインフレは、一九四九年にデトロイト銀行頭取の米特使ドッジが断行した金融引き締めで抑え込んだが、壊滅した製造業は立ち直れず、生活物資が欠乏してますます暮らし向きが苦しくなっていった。そんな折の五〇年六月二十五日に勃発したのが朝鮮戦争だ。いわゆる朝鮮特需が日本経済立ち直りのきっかけとなったことはよく知られている。
芸術新潮の創刊された五〇年の初めは、印刷向けの資材不足がますますひどくなり、出版界がまさに困窮を極めた時期にあたる。印刷資材が枯渇したせいで雑誌の休刊が相次ぎ、耐え切れずに廃業した出版社も少なくなかった。五〇年六月時点で休刊百四十四、廃刊は三百六十七にのぼり、年の後半には雑誌を発行してきた多くの出版社が廃業の憂き目に遭う。戦後、復刊したばかりの「文藝春秋」が休刊したのもこの頃だ。
しかし、齋藤が復刊した新潮だけはページ数を減らしながらも部数を伸ばしていき、さらに新たな雑誌をつくろうとまでした。新潮社では戦前の大衆雑誌「日の出」を廃刊した代わり新潮復刊の明くる一九四七年、新たに「小説新潮」を創刊。そこから齋藤は「芸術新潮」の創刊準備に入った。それは齋藤にとって欠かせない雑誌だった。
奇しくも朝鮮特需が訪れて戦後の不況が嘘のように、活気を取り戻した。と同時に、GHQによる新聞やラジオ関係者のレッドパージが吹き荒れ、それまでの戦犯追及の空気が一変していく。むろん齋藤が朝鮮戦争を予測していたわけではあるまいが、芸術新潮はまさにそんな端境期に創刊された。
当初の編集・発行人は社長の佐藤義夫となっている。事実上の編集長として齋藤が指揮を執ったのは、いうまでもない。新雑誌はそれまでの見る芸術誌ではなく、読む芸術誌という編集方針を掲げ、重厚な芸術評論を誌面の中心に据えた。アンドレ・マルローによる連載「東西美術論」を開始した五〇年八月号には、岡本太郎の「ピカソの顔」を掲載する。岡本を見いだしたのも齋藤だ。また小林秀雄も創刊時から執筆陣に名を連ね、翌五一年三月から「ゴッホの手紙」の連載を始めて、評判を呼ぶ。
その芸術新潮編集部に迎えられたのが、早大理工学部の同級生であり、齋藤を文学に導いた白井重誠である。本人は芸術新潮編集部の顧問という肩書で、新潮編集長の齋藤に代わり、文字どおり編集長役を代行した。のちの週刊新潮においてもそうだが、齋藤は芸術新潮の編集会議にも参加しなかった。
「当時、芸新(新潮社の社員は芸術新潮をそう呼んだ)には、松本清張さんのお嬢さんが勤めていらして、外交官の方と結婚されて辞めてしまいました。その欠員補充があり、私が新潮社の入社試験を受けたのです。たまたま知り合いだった旺文社の赤尾社長の奥様を通じて亮一社長の奥様に紹介していただきました。完全な縁故採用です」
一九六一年に早大文学部から入社し、ほどなくして芸術新潮に配属された木下靖枝が、およそ六十年前の雑誌草創期のことを思い起こしてくれた。
「齋藤さんは編集長ではありませんでしたが、編集部の白井さんの席の横にお座りになり、いつもお二人で打ち合わせをしていました。私はそのそばに座っていたので、打ち合わせが全部聞こえるのです。芸新は齋藤さんの肝いりでつくった雑誌なので、思い入れは格別でした。音楽はもちろん、美術や建築、演劇にいたるすべての芸術ジャンルを網羅していました。ビジュアルではなく文字を主体にしたそれまでにない芸術誌でした。林芙美子さんの連載もある、芸術をテーマにした文芸雑誌でした。売り出すためにじゃぶじゃぶお金を使い、発売日の広告は朝日新聞の全五段というぜいたくさ。今考えると信じられません」
芸術新潮のために毎月朝日新聞の全五段広告を出したというから、当時で百万円以上、今の金額にすると、ひと月一千万円の広告費に相当する。それでも創刊以来黒字を続けた。木下が在籍していた一九六〇年代の新潮社では、社屋の四階に、新潮と芸術新潮の編集部があり、隣り合わせになっていた。齋藤は事実上、その二つの編集長を掛け持ちしていた。ただし、さすがに細かいところまでは目を配れない。木下が言葉を加える。
「私たちが毎月編集会議に集まります。そこで決まったテーマをメモ書きにし、いったん白井さんが預り、白井さんが齋藤さんに伝える。そうしてお二人で打ち合わせをされてラインナップが決まるシステムでした。ときに齋藤さんが『こんなのつまんないよ』と会議のテーマに文句を言う。すると、編集会議をやり直す。そういう感じでした」
四六年二月から六七年六月に酒井健次郎に代わるまで、新潮の編集長だった二十一年を含め、およそ半世紀にわたり齋藤は“編集人”として新潮社のさまざまな雑誌に目を配ってきた。木下が破顔する。
「それぞれの雑誌で齋藤さんと打ち合わせる相手は、新潮が菅原さん、芸新は白井さん。それだけです。齋藤さんの命を受けたお二人がそれぞれの編集現場を取り仕切っていました。どちらの編集部も四階にあるので、その様子が手にとるようにわかる。菅原さんに対する齋藤さんの怒鳴り声が、隣の芸新にまでよく聞こえてきました。たとえばちょうど瀬戸内さんがデビューなさった頃でしたか。齋藤さんが瀬戸内晴美(寂聴)さんの書き方にクレームをおっしゃっていました。菅原さんに書き直しを指示していたのだと思いますけど、そのあと担当の田邉さんが本当に困って、電話で瀬戸内さんにずいぶん謝っていました。そんなやりとりがしょっちゅう聞こえてくるんです」
鬼才 伝説の編集人 齋藤十一
「週刊新潮」「フォーカス」等を創刊。雑誌ジャーナリズムの生みの親にして大作家たちに畏怖された新潮社の天皇・齋藤十一。出版界の知られざる巨人を描いた傑作評伝。