百歳を超えてもなお第一線で制作に励んだ美術家の篠田桃紅さんが、一〇七歳で逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。
自分の道を追い求め、最後まで現役を貫いた桃紅さん。その凛とした強い姿勢から紡がれる珠玉のエッセイ集・第2弾『一〇三歳、ひとりで生きる作法』より、感動のメッセージをお届けします。(連載『一〇三歳になってわかったこと』もあわせてお読みください)
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富士山麓には、まだ少しは原生林の面影の残っている林がある。
ある夏の午後、ハリモミの林から杉林を歩き抜けると、街道に出た。三人連れの女の人たちが、私の前を横切って行った。
彼女たちは、いかにも避暑地らしい、しゃれた身なりで散歩していたのだが、不意になんともいえない感じに襲われて、私は立ちすくんでしまった。
匂いであった。
彼女たちの香水の匂い、と気づいた。異様だったのである。私はふだん、香水は用いないが、人がつけている香水を特に嫌うほどでもない。強すぎないかぎりは、いい匂いだと思うこともある。
だが、そのときの私は、明らかに違和感を抱いた。異質なものへの拒絶反応というものがあった。
我知らず林へ引き返し、杉の幹にもたれて、しばらくぼんやりしていた。
樹木のあいだを縫って来る風が、今しがた侵入した人工の匂いを次第に消してくれていた。ふっと、遠い日の記憶がよみがえってきた。
匂いの記憶。数十年も前の、杉の匂いがよみがえった。
それは、マンハッタン五十七丁目のビルの五階の画廊でのことだった。私は初めてニューヨークで個展を開くことになっていた。着いた作品の荷物を解いていると、荷物からなんとも知れない、いい匂いが漂ってきた。
画廊の女主人が私を見て言った。
「トーコーの絵はなにを使っているのか。いい匂いがしてくる」
仕事を手伝っている若い男の人たちも、口々に言う。
「これが墨の匂いだろうか。なんといういい匂い」
墨の匂いではないと思いながら、私もなんの匂いかわからない。
外箱が開けられて、作品が出てきた。
一点一点の作品のあいだに杉板があてられていた。杉の匂いだった。
仮梱包で私の仕事場から持ち出されたので、私は、本梱包がどうなっているかは知らなかった。一枚一枚の杉板は無垢で、裏側に四、五本の桟(横木)が打ってあった。木の色も柾目(まさめ)も、美しい秋田杉だった。
画廊の人たちは、一様に感嘆の声をあげた。
私の作品にではない。作品はまだ紙に包まれている。
「日本ではラッピングがアートだ」
「ミス シノダ、どうぞこの板を私に一枚ください。部屋に立てて、毎日この匂いを嗅ぎたい」
「日本のシーダー(杉)がこんなにいい匂いとは知らなかった」
「それにしても、信じられないようなぜいたくな包みかた……」
ギャラリー中、すっかり杉板に魅せられてしまい、かんじんの作品が出てきても、すでにみなはいかれた表情で、私はちょっと拍子抜けした。
私が作品梱包を依頼したN氏は、東京一の美術梱包の名人といわれていた人。
「船がパナマ運河を通過しても、ムレないよう、虫もカビもつかないようにしてある」
と言ったことを思い出したが、ギャラリーいっぱいに、日本杉の香りを送り込んでくれようとは、思いもよらないことだった。
今、思い出しても、あの杉の香りは、初冬のニューヨークの乾いた空気を突き抜ける、生のものの持つ、いのちの香りだった。「香に立つ」という言葉にふさわしいものだった。
おかげで私は、心細い初めての外国で、まずまずの滑り出しができそうな気持ちになれたのだった。
香りは目に見えないものだけに、かえって感覚の記憶が失せないようだ。
ことに自然の香りは、なつかしさを呼び起こす。
このときは、数十年も前の、時間と場所に連れ戻してくれた。