ノンフィクション作家・森功さんが故・齋藤十一に迫った傑作評伝『鬼才 伝説の編集人 齋藤十一』が発売になりました。齋藤十一は「週刊新潮」「フォーカス」等を創刊し、小林秀雄や太宰治、新田次郎、山崎豊子、松本清張ら大作家に畏怖された稀代の天才編集者です。「新潮社の天皇」「出版界の巨人」「昭和の滝田樗陰」などの異名をとりながらも、ベールに包まれてきた齋藤十一の素顔とはー。
「この本に書いてあるような傾向を持った小説を書いていただきたい。いわばサスペンス小説のようなものであり、また推理小説としても通り、しかも恐怖的要素を含んだもの……」
週刊新潮が創刊して四年目に入った一九五九(昭和三十四)年三月半ばのことである。編集部員が連載小説を依頼するため、気象庁に勤めていた藤原寛人のもとを訪ねた。無線電信講習所(現・電気通信大学)を経て中央気象台に勤めた藤原は、終戦後に改組された気象庁に復帰し、五一年に毎日新聞の懸賞小説に応募した。「サンデー毎日」が創刊三十周年を記念して企画したイベントだ。
その小説がみごと一等賞をとる。当人はそれを機に本格的な作家活動を始めた。サンデー毎日に応募した著作は「強力伝」、妻女のていも小説家として知られ、次男の正彦はのちに数学者、評論家となる。改めて念を押すまでもなく藤原寛人とは、新田次郎のことだ。
新田は丹羽文雄主宰の「文学者」の同人となり、強力伝が五六年に直木三十五賞を受け、文壇で奇才と注目された。七一年には新潮社から「八甲田山死の彷徨」を刊行し、大ヒットする。
だが、齋藤十一にとって、このときの新田は、単なる新人作家の一人でしかなかったのかもしれない。というより、他の多くの著名作家と同じ接し方をしたといったほうがいい。
四九年八月に入社して週刊新潮編集部に配属された新田敞が、齋藤の命を受け、直木賞作家の勤める気象庁を訪ねた。奇しくも同じ姓だが、新潮社の新田に本人と血縁関係はない。のちに新潮社で出版部長や常務を歴任し、もっぱら文芸出版部門を支えてきた。新田次郎自身が新潮文庫「小説に書けなかった自伝」のなかに、週刊新潮および新潮社との出会いについて、次のように書き留めている。
〈むずかしい話のようなので、すぐ隣りの労働省の食堂でコーヒーを飲みながら話を聞いた。彼はロワルド・ダール著田村隆一訳『あなたに似た人』(早川書房刊)の本を持って来て、その内容をざっと説明した〉
週刊新潮の新田が持参した「あなたに似た人」は、刺青をした無名の画家が死後に有名になり、画商に背中の皮をはぎ取られるといった猟奇的な内容の短編小説集だ。新田にはホラー小説の趣味はない。そんなものを見せられても、その申し出にはあまり気が進まなかった。それでも齋藤の選んだ作家だけに、依頼をするほうは熱が入る。新田は編集者の熱意に押され、執筆を引き受けて作業にとりかかったという。
連載小説のタイトルは、すぐに「冷える」と決まった。一回あたりに掲載する分量が四百字詰め原稿用紙で二十枚、それを十二回掲載する。毎週の読み切りの短編推理小説連載である。読み切りなので週に一度毎回異なるストーリーを考え、書かなければならない。厄介な依頼だが、評判の週刊新潮に掲載できると心が惹かれたのかもしれない。新田はこのときの苦労について「小説に書けなかった自伝」に次のように綴っている。
〈これからの三カ月(十二週)間が私にとって作家生活全体を通じてもっとも苦しい時期であった。そうなることも知らずに、うっかり引受けたのが運のつきだった〉
週刊新潮では南政範が原稿のやりとりをする担当編集者となり、新田はまず三週分を書いて南に渡した。ところが、そのすべてが没となってしまう。
〈神田の喫茶店で南さんにくわしく聞いてみると、この小説を「週刊新潮」に載せるかどうかは編集担当重役の斎藤十一さんが決定することになっているので、われわれとしてはどうにもならないということだった〉
新田の「自伝」はさらにこう続く。
〈とにかく、人の意表を衝くような小説で、恐怖と適度なサスペンスを盛りこんだものということを頭に置いた上で、筋だけを一生懸命に考えた。三日間に五つほどの筋ができ上った〉
新田は五編分となる原稿を書き上げて南に渡した。一編あたりの原稿は二十枚だから実に百枚分の原稿である。
しかし、そのうち齋藤が採用したのはわずか一編だけ、百枚分のうちの二十枚、五分の一しか掲載されなかった。とすると、その確率で週刊誌の連載を毎週続けるには、週に百枚として、ひと月あたり四百枚のハイペースで原稿を書かねばならない。新田は当時の追い詰められた心情をこう吐露している。
〈苦しい日が続いた。自分自身の才能について疑問を持った。もの書きとしての自信がぐらついた〉(「小説に書けなかった自伝」より)
新田は苦悩しながら、齋藤の推理小説に対する考えを探った。結果、作家の頭で物語の舞台をでっちあげるのではなく、社会に実在するテーマを題材に創作しなければならない、という結論にいたった。そうして、当初の予定どおり三カ月間、何とか十二回の短編小説連載を乗り切った。
新田次郎ほどの作家ですら、気に入るまで書き直させる。それが齋藤流だ。
「作家の名前なんかいらない。中身がおもしろければいいんだ」
鬼才 伝説の編集人 齋藤十一
「週刊新潮」「フォーカス」等を創刊。雑誌ジャーナリズムの生みの親にして大作家たちに畏怖された新潮社の天皇・齋藤十一。出版界の知られざる巨人を描いた傑作評伝。