ノンフィクション作家・森功さんが故・齋藤十一に迫った傑作評伝『鬼才 伝説の編集人 齋藤十一』が発売になりました。齋藤十一は「週刊新潮」「フォーカス」等を創刊し、小林秀雄や太宰治、新田次郎、山崎豊子、松本清張ら大作家に畏怖された稀代の天才編集者です。「新潮社の天皇」「出版界の巨人」「昭和の滝田樗陰」などの異名をとりながらも、ベールに包まれてきた齋藤十一の素顔とはー。
齋藤は出版界の注目するその大事業において、文字どおり週刊新潮の創刊準備段階から主導的にかかわってきた。記事のラインナップや執筆陣の選定、表紙や各記事のタイトルにいたるまで、すべてを手掛けたといっていい。週刊新潮を創刊したと伝えられてきたのはそのためであり、そこはたしかだ。のちに夫人となる美和は創刊準備に携わった部員の一人で、創刊号の表紙づくりを担当した。齋藤の死後、自ら編集して刊行した「編集者 齋藤十一」で当時の心情をこう吐露している。
〈(週刊新潮を)どのような表紙にするか、試行錯誤がつづきました。編集長の佐藤亮一さんから「出版社から初めての週刊誌だから作家の顔で」と言われて、作家の写真を表紙の大きさに焼いてみたりしたのですが、いくら立派な顔であっても、しょせんは“おじさん、おばさんのアップ”で、あまり面白くない〉
作家を起用しようとした表紙づくりにダメ出しをしたのが、ほかならぬ齋藤である。現存する他の多くの週刊誌と同じく、パイオニアである週刊朝日やサンデー毎日の表紙も、著名人のアップ写真を使っている。当初、編集長の亮一もそう考えたが、齋藤のイメージに合わなかったのだろう。先の池田雅延は、そのあたりのことを美和から詳しく聞いている。
「文芸出版社である新潮社としては、やはり作家で勝負するという固定観念があるのです。それで、週刊新潮の表紙に一流作家の顔写真を順に載せようとしたらしい。しかし、それでは週刊朝日やサンデー毎日と見分けのつかない雑誌ともいえます。それを聞いた齋藤さんが『そんな雑誌が売れるわけねぇ』って一蹴したそうです。齋藤さんはガラッと発想を変えた。たしか、美和さんが齋藤さんに『谷内六郎さんのところへ行って来い』と指示され、表紙が決まったと聞きました」
九〇年代に齋藤の下で「新潮45」の編集長を務める現新潮社相談役の石井昂は、そんな齋藤の感性をこう褒めあげる。
「谷内六郎の絵を印刷して表紙にしたのは、ある種の齋藤さんの美意識だと思います。原画は言いようがないほど素晴らしい。シャガールも真っ青みたいなものすごくいい絵です。齋藤さんは一見、幼稚に見えるその高貴な芸術性を見抜いていたのでしょうね。谷内六郎は間違いなく天才だけど、天才は天才を知るといいますから、何となくその素晴らしさが齋藤さんにはわかったのでしょう」
同じ日本画なら、東山魁夷や髙山辰雄はどうか、という声もあがった。芸術新潮を率いてきた齋藤は画壇の重鎮たちにも通じている。だが、敢えて幼い子供が描いたような谷内の牧歌的な世界を好んだ。
「こんな人がいるよ。研究してみる価値はあるんじゃないか」
齋藤からそう指示され、谷内六郎のもとへ伺いを立てに向かったのが美和である。谷内が第一回文藝春秋漫画賞を受賞したばかりの頃だ。
美和は旧姓を大田といい、戦後新潮社に入社して以来、新潮編集長時代から齋藤のそばで働いてきた。週刊新潮の創刊でも、準備段階から齋藤の補佐役として尽力したという。鍋谷(現・須賀)契子は、齋藤との結婚準備のために美和が退社したため、編集部の欠員補充要員として新潮社に中途採用された。週刊新潮の創刊時を知る数少ない元編集部員である。
「私は兵庫県の赤穂出身で京都女子大付属高校三年生のときに京都代表として全国弁論大会に出ました。たまたま私の話を聞いていた海部俊樹さんと渡部恒三さんから『早稲田に来い』とお手紙を頂き、早大の教育学部国文科に入学しました。大学を卒業したあと、東洋経済の『東洋時論』編集部を経て週刊読書人に移り、『編集者のプロフィール』というコラムを担当しました。そこで創刊したばかりの週刊新潮の編集長だった佐藤亮一副社長を取材したのです。たまたま齋藤さんの奥さんとなる美和さんが会社を辞めるというので、副社長から『うちに来ないか』と誘われたのです」
週刊新潮が無事創刊にこぎ着けると、齋藤は前妻の富士枝と別れ、美和との結婚を決意する。副社長の亮一と相談した上、それまで住んでいた練馬区大泉の家を引き払い、鎌倉の明月谷に新しく家を建てることに決めた。
鬼才 伝説の編集人 齋藤十一
「週刊新潮」「フォーカス」等を創刊。雑誌ジャーナリズムの生みの親にして大作家たちに畏怖された新潮社の天皇・齋藤十一。出版界の知られざる巨人を描いた傑作評伝。